-
名古屋鉄道から見たオイルショック
1973年(昭和48年)のオイルショックを境に低成長時代となり、名鉄も事業計画を大幅に見直さざるを得なかった。喫緊の課題として自家用車から転移した影響による通勤客の著しい増加に対応するため、事業投資も路線・車両・駅施設の整備など本業優先となり、本格的な「大都市圏鉄道」へと脱皮を促すきっかけとなった。それまでの名鉄は快適な車内設備(クロスシート車)にこだわり、いわゆる『通勤型車』(3扉以上のロングシート車)を持たない 大手私鉄として有名であったが、東急から純通勤車(3880系=東急3700系)を緊急導入したのをきっかけに、1976年(昭和51年)以降は本格的な『通勤車』の導入(6000系)を開始し、朝夕の通勤輸送に本腰を入れて取り組むようになった。他にも、名古屋本線を中心に待避設備の整備を加速して列車設定(ダイヤ)の自由度を上げ、犬山線を中心に各駅ホームの有効長延長に取り組むなど旧弊な路線設備の刷新を行ない、同時に駅建物の重層化(駅ビル建設)による不動産価値(賃貸料収入)の増大も志向した。(名古屋鉄道 フレッシュアイペディアより)
-
名古屋鉄道から見た網走バス
他の地域への進出は名鉄側からアプローチしたものよりも、先方から経営参加を呼び掛けられる例が多かった。前述の北陸鉄道の争議終結によって「労務管理の土川(名鉄)」と当時社長であった土川元夫の評判が地方交通事業者の間で一気に広がり、経営に行き詰った会社が「立て直し」を依頼するケースが相次いだ。その代表例としては宮城交通・網走バスなどが挙げられ、それまで東北・北海道には進出の足掛かりも無かっただけに、名鉄側も積極的に応じた。また、海外への進出も手掛けるようになり、香港・サイパン・ミクロネシアには現地法人(観光施設・ホテルなど)を次々に立ち上げていった。(名古屋鉄道 フレッシュアイペディアより)
-
名古屋鉄道から見たパレマルシェ
戦後の混乱が収まるに連れて、名鉄も他の大手私鉄と同様に事業の多角化を図るようになり、その手始めとして、戦時中に計画が頓挫していた新名古屋駅(現、名鉄名古屋駅)の駅ビル建設に着手して百貨店を併設した。当初の計画では、地元の老舗百貨店松坂屋にテナントとしての出店交渉を進めたが不調に終わり、自前での百貨店経営を決意して、電鉄系百貨店の元祖である阪急百貨店の全面的な協力 を得て1954年(昭和29年)12月に名鉄百貨店を開業し、流通業界へ進出する足掛かりとした。その後も沿線の団地を手始めに名鉄ストアー を開業して、駅の改修に併せて順次出店を進めた。(名古屋鉄道 フレッシュアイペディアより)
-
名古屋鉄道から見た名古屋観光日急
他にも、名神高速道路が一宮まで開通した折には高速バスの路線免許を廻って争いが発生し、名鉄主導の日本急行バスで一本化が決まっていた私鉄系のバス会社(路線) に対し、土壇場で近鉄主導による日本高速バスが参入を強行し、開業後も激しい競合のために両社が共倒れ寸前に陥りかけた。また、近鉄がテリトリーとしていた石川県において、名鉄が中部運輸局(運輸省・当時)の要請に呼応して北陸鉄道の支援を行った際には、対抗措置として北陸日本交通なるバス会社の設立を目論む(後に北日本観光自動車へ合併させるが、路線拡大は却下された)など、名鉄と近鉄の両社は1970年頃まで激しく対立していた。(名古屋鉄道 フレッシュアイペディアより)
注目ワード
キーワード一覧