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和田一浩から見た東京ヤクルトスワローズ
そこでは前年3割を打ったにも関わらず、。開幕戦1試合2本塁打と最高のスタートを切り、4月25日の巨人戦でプロ通算200号本塁打を西武時代の同僚豊田清から放った。5月12日の対ヤクルト戦で地元岐阜の長良川球場で初の本塁打を放ち故郷に錦を飾った。6月21日のオリックス戦で平野佳寿から先制の満塁本塁打を放った打席で通算4000打数に到達し、通算打率にランクイン。この時点で川上哲治や落合博満監督(当時)をも上回る通算打率.315で、歴代6位・日本人右打者最高となった。6月には打率.415、6本塁打、15打点の成績で、2度目の月間MVPをチームメイトの川井雄太と共に受賞した(川井の投げる日は3試合連続本塁打、打率4割と相性が良かった)。交流戦では打率4割、7本塁打(ともに2位)と絶好調。7月15日には4年ぶりの20本塁打と自己最多ペースで本塁打を量産し、9月15日には10回表に永川勝浩から決勝の3試合連続本塁打を打った。打率.302で7度目の3割を記録し、29本塁打、87打点、出塁率.382と前年より大きく成績を上げ、打撃主要部門全てでリーグトップ10に入った。守備面でも元捕手の強肩かつ堅実な送球で12補殺を記録し、2年連続セ・リーグ最多補殺に輝いた。また、この年初めてシーズン全試合に出場(144試合)した。(和田一浩 フレッシュアイペディアより)
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和田一浩から見た千葉ロッテマリーンズ
も、首位打者争いは青木宣親に敗れたもののの、最終的に打率.339、37本塁打(自己最多かつ、中日移籍後では唯一の30本塁打。また中日の日本人選手では本拠地をナゴヤドームに移転した1997年以降では、2006年の福留孝介以来2人目の30本塁打記録であり、日本人の年間球団記録でもある)、93打点とチーム三冠、自己最多本塁打の活躍でチームの4年ぶりの優勝に大きく貢献した。また前年に続き2年連続でシーズン全試合に出場した。クライマックスシリーズ第2ステージの巨人との試合では、第4戦に9回裏3-3の場面で久保裕也からサヨナラ安打を放ち、シリーズMVPに輝いた。日本シリーズでも第2戦・第4戦で猛打賞を記録。第7戦の9回裏、1点ビハインドの場面でロッテの守護神小林宏之から三塁打を放ち、次打者ブランコの一時は同点となる犠飛につなげるなど好調を保ち、7試合で29打数12安打1本塁打6打点と活躍。チームは2勝4敗1分で敗れたが、敢闘選手賞を受賞した。また、自身初となるシーズンMVP及び自身6度目・中日移籍後は初となるベストナイン(外野手部門)に選出された。11月24日の契約更改で、新たに3年総額12億円で契約を結んだ。(和田一浩 フレッシュアイペディアより)
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和田一浩から見た広島東洋カープ
4月8日の対ヤクルト戦(ナゴヤドーム)にてプロ通算300号本塁打を放ち、41歳9ヶ月での300本塁打達成は史上最年長となり、大学卒業から社会人を経てプロ入りした選手としては史上初の記録となった。同年7月1日の対DeNA戦で42歳としては史上7人目のシーズン2桁本塁打を記録。7月は猛打賞4回を含む打率.397、7本塁打、21打点の活躍で月間MVPを受賞した。しかし8月5日の対広島戦(ナゴヤドーム)でブライアン・バリントンが投じた抜け球が右手に直撃し右手舟状骨を骨折、ギプスで4 - 6週間固定が必要となり、結局2000本安打まで15本残しシーズンを終えることになり、2000本安打を達成したのは6月11日、対ロッテ戦(QVCマリンフィールド)で、1回表に左前適時打、2回表に左翼線への安打を放ち、史上最年長42歳11か月での達成となった。史上45人目。大学卒業と社会人経験を経てプロ入りした選手の2000安打達成は古田敦也、宮本慎也に次いで3人目。(和田一浩 フレッシュアイペディアより)