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千手観音から見た唐招提寺
奈良唐招提寺金堂像(立像)、大阪葛井寺本尊像(坐像)、京都寿宝寺本尊像(立像)などは、実際に千本の手を表現した作例である。像高5mを超える唐招提寺像は大手が42本で、大手の隙間に多数の小手(現存953本という)を表す。葛井寺像は、大手が40本(宝鉢手をつくらない)、小手は1,001本である。小手は正面から見ると像本体から直接生えているように見えるが、実は、像背後に立てた2本の支柱にびっしりと小手が取り付けられている。葛井寺像の大手・小手の掌には、絵具で「眼」が描かれていたことがわずかに残る痕跡から判明し、文字通り「千手千眼」を表したものであった。(千手観音 フレッシュアイペディアより)
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薬師如来から見た唐招提寺
像容は、立像・坐像ともにあり、印相は右手を施無畏(せむい)印、左手を与願印とし、左手に薬壺(やっこ)を持つのが通例である。ただし、日本での造像例を見ると、奈良・薬師寺金堂像、奈良・唐招提寺金堂像のように、古代の像では薬壷を持たないものも多い。これは、不空訳「薬師如来念誦儀軌」の伝来以降に薬壷を持つ像が造られるようになったと考えられている。単独像として祀られる場合と、日光菩薩・月光菩薩を脇侍とした薬師三尊像として安置される場合がある。また、眷属として十二神将像をともに安置することが多い。薬師如来の光背には、七体または六体、もしくは七体の同じ大きさの像容がある。これは七仏薬師といって薬師如来とその化身仏とされる。(薬師如来 フレッシュアイペディアより)
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日本美術史から見た唐招提寺
710年の平城遷都に際し、当時飛鳥にあった法興寺(元興寺)、大官大寺(大安寺)、薬師寺、厩坂寺(興福寺)などの寺院はこぞって新京へ移転した。また、新京には東大寺、西大寺、唐招提寺などが新たに建立された。時の政権は仏教を厚く保護し、寺院の造営、仏像の造立、経典の書写などは国家の事業として実施された。中でも聖武天皇は仏教に深く帰依し、東大寺に大仏を造立し、また各国に国分寺・国分尼寺を建立することを命じた。平城京に都があった時代の文化は、年号から「天平文化」と呼ばれ、国際色豊かな仏教文化が栄えた。東大寺の倉庫であった正倉院の宝物は聖武天皇の遺愛品を中心とする8世紀美術の宝庫で、日本製品とともに唐からの舶載品を数多く所蔵する。天平時代は華やかな時代というイメージがあるが、一方で天災、凶作、権力者同士の抗争などが相次ぐ不安定な時代でもあった。(日本美術史 フレッシュアイペディアより)
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鎌倉文化から見た唐招提寺
大仏様、禅宗様など外来の新様式に対する、前代以来の日本的様式である。ゆるい屋根の勾配、穏やかな軒反りを特徴としている。構造的には原則として頭貫以外に貫を用いず、長押を多用する。蓮華王院本堂(三十三間堂)、大報恩寺本堂(京都市)、興福寺北円堂(奈良市)などがこの時代の純和様の代表例である。蓮華王院は、1165年(永万元年)の創建当時は五重塔なども建つ本格的な寺院であったが、1249年(建長元年)の火災で焼失した。1266年(文永3年)に本堂(三十三間堂)のみが再建されている。光明寺二王門(京都府綾部市)、霊山寺本堂(奈良市)、長弓寺本堂(奈良県生駒市)、唐招提寺鼓楼(奈良市)、太山寺本堂(愛媛県松山市)などは、和様を基調としつつ、木鼻などの細部に大仏様を取り入れている。このような建築様式を新和様とも称する。(鎌倉文化 フレッシュアイペディアより)

