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善養寺 (世田谷区)から見た唐招提寺
丸子川にかかる赤い橋(大日橋)を渡って石段を上ると、一対の海駝(かいだ)の坐像が出迎える。海駝は架空の神獣で火除けの神といい、世界でも5つしかない珍しいものという。本堂は奈良の唐招提寺金堂を模したもので、鴟尾一対が載った瓦葺き、寄棟造りの屋根が特徴である。(善養寺 (世田谷区) フレッシュアイペディアより)
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賢憬から見た唐招提寺
興福寺の宣教に師事して唯識法相を学ぶ一方で苦業練行を重ね、天平15年(743年)正月に「師主元興寺賢璟」として同族の子麻呂を優婆塞に貢進推挙した。754年(天平勝宝6年)唐の僧鑑真を難波に迎え、翌755年(天平勝宝7歳)には旧戒を破棄して鑑真から具足戒を受けた。758年(天平宝字2年)には唐招提寺に一切経420巻を奉納している。774年(宝亀5年)に律師に任じられている。宝亀9年(778年)頃に大和国室生山で延寿法を修して山部皇太子(後の桓武天皇)の宿痾を治したために、後に桓武天皇の深い信頼を得た。780年(宝亀11年)多度大社神宮寺に三重塔を建立、また宝亀年間(770年?780年)には室生寺を創建している。784年(延暦3年)大僧都に任じられる。延暦4年(785年)4月の最澄の戒牒や『多度神宮寺伽藍縁起並資財帳』に、ともに僧綱の一人として署名した。793年(延暦12年)遷都を行うにあたって遷都先の地を選ぶ際、山背(山城)の地に派遣されている。その際、比叡山文殊堂供養で導師をつとめている。同年11月8日に80歳で没した。(賢憬 フレッシュアイペディアより)
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