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奈良県道266号奈良西の京斑鳩自転車道線から見た唐招提寺
平城宮跡を抜けて秋篠川を南進すると、西の京地区の唐招提寺や薬師寺といった寺院・名跡を仰いで大和郡山市へ入る、(奈良県道266号奈良西の京斑鳩自転車道線 フレッシュアイペディアより)
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官寺から見た唐招提寺
舒明天皇11年(639年)から造営の始まった百済大寺(後の大官大寺・大安寺)が天皇家の発願による最初の官寺であり、奈良県桜井市の吉備池廃寺が寺跡に比定されている。『日本書紀』天武天皇9年(680年)4月の記事に「官司治むる」「国大寺二三」という文言が見られるが、これは皇室とのつながりの深い大官大寺・川原寺(現・弘福寺)両寺と蘇我氏の氏寺でありながら飛鳥の中心寺院として大化の改新以後には代わって朝廷の保護を受けた法興寺(飛鳥寺)を加えた各寺院のこととされている。続いて『続日本紀』大宝2年(702年)12月の記事には、「四大寺」という文言が見られ、これは前述の3寺に薬師寺を加えた4寺を指すと考えられている。その後、平城京遷都に伴い、大官大寺は新京に移されて大安寺と改名し、法興寺も移転されて元興寺と改名された(なお、法興寺の旧施設も別院として残されて後に本元興寺として独立する)。続いて同じく天平勝宝8歳(8年、756年)には先の「四大寺」に更に興福寺・東大寺・法隆寺の3寺を加えた計7寺が「七大寺」として記されている(ただし、川原寺を外して西大寺を加えた後世「南都七大寺」と呼ばれた寺院を指すとする説もある)。更に同じく宝亀元年(770年)4月の記事では「十二大寺」が記録されている。この12寺がどこを指すのかは不明。延暦10年(791年)には四天王寺・崇福寺と西大寺(あるいは川原寺)を加えて「十大寺」とした。更に『延喜式』においては大寺のうち、「十大寺」と唐招提寺・新薬師寺・本元興寺(法興寺から分離、現・飛鳥寺)・東寺・西寺を「十五大寺」とした。ただし、本元興寺を外して法華寺を入れる異説がある他、梵釈寺や建興寺(豊浦寺、現・向原寺)のように「十五大寺」に含まれないが待遇面では大寺の待遇を受けていた寺院や戒壇が置かれた観世音寺・下野薬師寺なども当然に大寺の待遇を受けており、この時期になると名数自体には深い意味は無かったと考えられている。(官寺 フレッシュアイペディアより)
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獅子窟寺から見た唐招提寺
像高は92.3センチメートル。9世紀(平安時代初期)の作。カヤ材の一木造で、両脚の前部、右腕の肘から先、左手首から先などに別材を矧ぐ。ただし、右腕と左手の別材部分は後補である。像底と後頭部、背部から内刳りを行う。左脚を上にして坐し、左足先を衣で包み込む形式で、唐代彫刻や唐招提寺の盧舎那仏坐像に代表される天平彫刻の古い形式を踏襲したものとみられる。面相表現には観心寺の如意輪観音像など承和後半期(840年代)の仏像との共通点が指摘される。印相は右手を胸前に上げた施無畏印とし、左手は膝上に置くのではなく胸前まで上げて宝珠を捧げる形とする点が珍しい。前述のとおり、本像の右腕の肘から先、左手首から先と持物の宝珠は後補で、当初からこの印相であったかどうかはわからない。特に後補の右腕の角度が不自然であることから、製作当初は説法印を結んだ阿弥陀如来像であった可能性が考えられている。(獅子窟寺 フレッシュアイペディアより)