76件中 41 - 50件表示
  • 唐招提寺

    唐招提寺から見た神護寺

    かつて講堂内には由来不詳の破損仏が多数安置されていた。それらは新宝蔵に移され「旧講堂木彫仏群」と称されている。中でも、上の3像と、現在も講堂にある持国天、増長天立像は作風に唐風が強く、鑑真とともに来日した工人が制作に関与したと推定される。奈良時代には銅造、乾漆造、塑造の仏像が盛んに造られ、純粋の一木造の作品はむしろ少ないが、上記の薬師如来、衆宝王菩薩、獅子吼菩薩の各像はいずれもヒノキまたはカヤの一木造で、素地仕上げとし、内刳りを施さず、足下の台座蓮肉まで一木で造るなど、技法に共通点が多い。薬師如来像は京都・神護寺の薬師如来像との様式的つながりが注目される。衆宝王菩薩像、獅子吼菩薩像は破損が激しいが、元は前者が三眼六臂、後者が三眼四臂の不空羂索観音として造立されたものと推定される。唐招提寺 フレッシュアイペディアより)

  • 唐招提寺

    唐招提寺から見た観世音寺

    堂内は広い部分を占めて須弥壇があり、その上に仏像が並んでいる。中央に本尊・廬舎那仏坐像、向かって右に薬師如来立像、左に千手観音立像の3体の巨像を安置するほか、本尊の手前左右に梵天・帝釈天立像、須弥壇の四隅に四天王立像を安置する(仏像はいずれも国宝)。廬舎那仏、薬師如来、千手観音の組み合わせは他に例がなく、経典にも見えないことからその典拠は明らかでない。東大寺(本尊は廬舎那仏)、下野薬師寺、筑紫観世音寺を「天下三戒壇」と称するが、唐招提寺の三尊は廬舎那仏・薬師・観音の組み合わせで天下三戒壇を表しているとする説もある。唐招提寺 フレッシュアイペディアより)

  • 唐招提寺

    唐招提寺から見たヒノキ

    正面7間、側面4間(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表す)で、手前の7間×1間を吹き放し(壁、建具等を設けず、開放とする)とすることがこの建物の特色である。吹き放しとなった堂正面には8本の太い円柱が並び、この建物の見所となっている。建物は文永7年(1270年)、元亨3年(1323年)、元禄6年 - 7年(1693年 - 1694年)に修理されている。特に元禄の修理は大規模で、創建当初は垂木のすぐ上に瓦を葺いていたものを改めて、屋根勾配を急にし、桔木(はねぎ)を入れ、近世風の小屋組とした。そのため屋根高は創建時より2メートル以上高くなっている。外面の各所に打ち付けられた長押も元禄材で、創建当初は現状よりせいの低い長押が用いられていた。明治31年から32年(1898年 - 1899年)の修理では小屋組の構造を再度改め、西洋式のキングポストトラスとしている。このように修理が重ねられて来たが、平成の大修理に伴う調査の結果、当初材が良好に残存していることが分かった。地垂木は9割が当初材を再用しており、扉も当初材を加工して使用している。2005年、奈良県教育委員会の発表によれば、金堂の部材には西暦781年に伐採されたヒノキ材が使用されており、建立は同年以降ということになる。唐招提寺 フレッシュアイペディアより)

  • 唐招提寺

    唐招提寺から見た新潮文庫

    『東山魁夷小画集 唐招提寺全障壁画』、新潮文庫、1984唐招提寺 フレッシュアイペディアより)

  • 唐招提寺

    唐招提寺から見た天平の甍

    唐招提寺(とうしょうだいじ)は、奈良市五条町にある鑑真が建立した寺院。南都六宗の1つである律宗の総本山である。本尊は廬舎那仏、開基(創立者)は鑑真である。井上靖の小説『天平の甍』で広く知られるようになった中国・唐出身の僧鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時代建立の金堂、講堂を始め、多くの文化財を有する。唐招提寺 フレッシュアイペディアより)

  • 唐招提寺

    唐招提寺から見た鴟尾

    国宝。奈良時代建立の寺院金堂としては現存唯一のものである(奈良・新薬師寺の本堂は奈良時代の建築だが、当初から本堂として建てられたものではない)。2000年から解体修理(「平成の大修理」)が行われ、2009年11月1日?3日に落慶行事が行われた。寄棟造、本瓦葺きで、大棟の左右に鴟尾を飾る。このうち西側の鴟尾は創建当初のもので、東側は鎌倉時代の元亨3年(1323年)の補作であったが、いずれの鴟尾も劣化が甚だしいため、平成の大修理に伴い、屋根上から下ろして別途保管することとなり、屋根上には新しい鴟尾が飾られている。唐招提寺 フレッシュアイペディアより)

  • 唐招提寺

    唐招提寺から見た須弥壇

    堂内は広い部分を占めて須弥壇があり、その上に仏像が並んでいる。中央に本尊・廬舎那仏坐像、向かって右に薬師如来立像、左に千手観音立像の3体の巨像を安置するほか、本尊の手前左右に梵天・帝釈天立像、須弥壇の四隅に四天王立像を安置する(仏像はいずれも国宝)。廬舎那仏、薬師如来、千手観音の組み合わせは他に例がなく、経典にも見えないことからその典拠は明らかでない。東大寺(本尊は廬舎那仏)、下野薬師寺、筑紫観世音寺を「天下三戒壇」と称するが、唐招提寺の三尊は廬舎那仏・薬師・観音の組み合わせで天下三戒壇を表しているとする説もある。唐招提寺 フレッシュアイペディアより)

  • 唐招提寺

    唐招提寺から見た四天王

    堂内は広い部分を占めて須弥壇があり、その上に仏像が並んでいる。中央に本尊・廬舎那仏坐像、向かって右に薬師如来立像、左に千手観音立像の3体の巨像を安置するほか、本尊の手前左右に梵天・帝釈天立像、須弥壇の四隅に四天王立像を安置する(仏像はいずれも国宝)。廬舎那仏、薬師如来、千手観音の組み合わせは他に例がなく、経典にも見えないことからその典拠は明らかでない。東大寺(本尊は廬舎那仏)、下野薬師寺、筑紫観世音寺を「天下三戒壇」と称するが、唐招提寺の三尊は廬舎那仏・薬師・観音の組み合わせで天下三戒壇を表しているとする説もある。唐招提寺 フレッシュアイペディアより)

  • 唐招提寺

    唐招提寺から見た遣唐使

    こうした中、天平5年(733年)、遣唐使と共に渡唐した普照と栄叡という留学僧がいた。彼らが揚州(現・江蘇省)の大明寺で高僧鑑真に初めて会ったのは西暦742年10月のことであった。普照と栄叡は、日本には正式の伝戒の師がいないので、しかるべき高僧を推薦いただきたいと鑑真に申し出た。鑑真の弟子達は渡航の危険などを理由に渡日を拒んだ。弟子達の内に渡日の志をもつ者がいないことを知った鑑真は、自ら渡日することを決意する。しかし、当時の航海は命懸けであった上に、唐で既に高僧として名の高かった鑑真の出国には反対する勢力もあった。そのため、鑑真、普照、栄叡らの渡航計画は挫折の連続であった。ある時は船を出す前に関係者の密告で普照と栄叡が捕縛され、ある時は船が難破した。748年、5回目の渡航計画では嵐に遭って船が漂流し、中国最南端の海南島まで流されてしまった。陸路揚州へ戻る途中、それまで行動を共にしてきた栄叡が病死し、高弟の祥彦(しょうげん)も死去、鑑真自らは失明するという苦難を味わった。753年、6回目の渡航計画でようやく来日に成功するが、鑑真は当時既に66歳になっていた。唐招提寺 フレッシュアイペディアより)

  • 唐招提寺

    唐招提寺から見た薬師如来

    堂内は広い部分を占めて須弥壇があり、その上に仏像が並んでいる。中央に本尊・廬舎那仏坐像、向かって右に薬師如来立像、左に千手観音立像の3体の巨像を安置するほか、本尊の手前左右に梵天・帝釈天立像、須弥壇の四隅に四天王立像を安置する(仏像はいずれも国宝)。廬舎那仏、薬師如来、千手観音の組み合わせは他に例がなく、経典にも見えないことからその典拠は明らかでない。東大寺(本尊は廬舎那仏)、下野薬師寺、筑紫観世音寺を「天下三戒壇」と称するが、唐招提寺の三尊は廬舎那仏・薬師・観音の組み合わせで天下三戒壇を表しているとする説もある。唐招提寺 フレッシュアイペディアより)

76件中 41 - 50件表示

「唐招提寺」のニューストピックワード