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善光寺から見た北条朝時
治承・寿永の乱(源平合戦)が本格化する直前の治承3年(1179年)3月24日、善光寺は大火災が発生している(『吾妻鏡』文治3年7月27日条)。この火災は『平家物語』(巻第二)でも取り上げられており、当時の緊迫した情勢に関わる(園城寺系の善光寺と延暦寺系の顕光寺の対立や、親平氏政権派と反平氏政権派の対立など)「事件」とも言われているが、火災の原因については不明である。その後、信濃国が関東御分国になったのをきっかけとして文治3年(1187年)に源頼朝が信濃国守護兼目代を務める比企能員を通じて同国の御家人に対し善光寺の再建を命じ、建久8年(1197年)には頼朝自らが善光寺に参詣した。頼朝参詣のことは、当該年の記述を欠いた『吾妻鏡』には載せられていないものの、九州の御家人であった相良四郎も随兵として従ったことが相良氏に伝わる善光寺参拝の随兵交名から知ることができる(『大日本古文書』相良家文書1-1号)。その後も鎌倉幕府及び北条氏による再建・造営事業は継続され、特に熱心であったのは北条氏庶流の名越氏一族であった。名越朝時は善光寺の再建事業を支援しただけでなく、自らも鎌倉に新善光寺(現在は葉山に移転)を創建して、その遺言に従って寛元4年(1246年)3月14日に名越氏一族主催による落慶供養が実施された。同年に発生した宮騒動の影響で名越氏一族は没落するが、続いて同じ北条氏庶流の金沢氏が善光寺・新善光寺の保護に努めた。善光寺の再建事業は北条氏以外の御家人の間にも善光寺への関心を高め、念仏や禅と同様に武士の間に善光寺信仰が受け入れられるきっかけとなっていった。中世以降の善光寺信仰の広まりから鎌倉時代以降、信仰者が夢で見たとされる善光寺本尊を模した像が多く作られ、日本の各地に「善光寺」や「新善光寺」を名乗る寺も建てられた。さらに、全国に広めたのは熊野聖などの勧進聖たちによってである。後深草院二条の「とはずがたり」には半年余にわたり市内の有力者であった和田氏の館(長野運動公園のあたりと考えられている)に滞在して参詣した旨の記述がある。(善光寺 フレッシュアイペディアより)
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善光寺から見た遠江国
本尊は武田氏が織田信長に滅ぼされると、その嫡男・織田信忠によって伊奈波(善光寺 (岐阜市))へ、本能寺の変の後には織田信雄により尾張国甚目寺へ、譲り受けた徳川家康の手で遠江国鴨江寺、後に甲斐善光寺へと転々とし、1597年(慶長2年)には豊臣秀吉の命令で甲斐から京都の方広寺へと移されたが、1598年(慶長3年)に秀吉の病は本尊の祟りであるという噂から、死の前日に信濃へ帰された。この間大本願の鏡空(智淨)や智誓(誓観)、智慶という三代の尼上人らが本尊に付き従って移動したとされ、大勧進の僧集団は残って本尊不在の荒れ果てた寺地を守っていたとされる。(善光寺 フレッシュアイペディアより)
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善光寺から見た後深草院二条
治承・寿永の乱(源平合戦)が本格化する直前の治承3年(1179年)3月24日、善光寺は大火災が発生している(『吾妻鏡』文治3年7月27日条)。この火災は『平家物語』(巻第二)でも取り上げられており、当時の緊迫した情勢に関わる(園城寺系の善光寺と延暦寺系の顕光寺の対立や、親平氏政権派と反平氏政権派の対立など)「事件」とも言われているが、火災の原因については不明である。その後、信濃国が関東御分国になったのをきっかけとして文治3年(1187年)に源頼朝が信濃国守護兼目代を務める比企能員を通じて同国の御家人に対し善光寺の再建を命じ、建久8年(1197年)には頼朝自らが善光寺に参詣した。頼朝参詣のことは、当該年の記述を欠いた『吾妻鏡』には載せられていないものの、九州の御家人であった相良四郎も随兵として従ったことが相良氏に伝わる善光寺参拝の随兵交名から知ることができる(『大日本古文書』相良家文書1-1号)。その後も鎌倉幕府及び北条氏による再建・造営事業は継続され、特に熱心であったのは北条氏庶流の名越氏一族であった。名越朝時は善光寺の再建事業を支援しただけでなく、自らも鎌倉に新善光寺(現在は葉山に移転)を創建して、その遺言に従って寛元4年(1246年)3月14日に名越氏一族主催による落慶供養が実施された。同年に発生した宮騒動の影響で名越氏一族は没落するが、続いて同じ北条氏庶流の金沢氏が善光寺・新善光寺の保護に努めた。善光寺の再建事業は北条氏以外の御家人の間にも善光寺への関心を高め、念仏や禅と同様に武士の間に善光寺信仰が受け入れられるきっかけとなっていった。中世以降の善光寺信仰の広まりから鎌倉時代以降、信仰者が夢で見たとされる善光寺本尊を模した像が多く作られ、日本の各地に「善光寺」や「新善光寺」を名乗る寺も建てられた。さらに、全国に広めたのは熊野聖などの勧進聖たちによってである。後深草院二条の「とはずがたり」には半年余にわたり市内の有力者であった和田氏の館(長野運動公園のあたりと考えられている)に滞在して参詣した旨の記述がある。(善光寺 フレッシュアイペディアより)
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善光寺から見た玄宗 (唐)
通説(公式HP)では、善光寺の由来は本田善光であり、本田善光が善光寺如来を信濃国に持ってきたとされているが、扶桑略記では或記(引用した)として、「秦巨勢大夫」とあり、伊呂波字類抄では「信濃国人若麻續東人」と相違がある。また、『四天王寺秘訣』には光坐寺や本善寺、『古今目録抄(太子伝)』には阿弥陀院、百済寺と多くある。また、天武天皇時に日本全国で造られた郡寺(郡家隣接寺院、水内郡は金刺舎人)の1つという指摘がある。天平勝宝8年(756年)唐の玄宗皇帝は楊貴妃の菩提を弔うため日本に使節を送り、信濃の善光寺に自筆の大般若経を奉納させたという伝承が残る。(善光寺 フレッシュアイペディアより)