-
善光寺から見た方広寺
本尊は武田氏が織田信長に滅ぼされると、その嫡男・織田信忠によって伊奈波(善光寺 (岐阜市))へ、本能寺の変の後には織田信雄により尾張国甚目寺へ、譲り受けた徳川家康の手で遠江国鴨江寺、後に甲斐善光寺へと転々とし、1597年(慶長2年)には豊臣秀吉の命令で甲斐から京都の方広寺へと移されたが、1598年(慶長3年)に秀吉の病は本尊の祟りであるという噂から、死の前日に信濃へ帰された。この間大本願の鏡空(智淨)や智誓(誓観)、智慶という三代の尼上人らが本尊に付き従って移動したとされ、大勧進の僧集団は残って本尊不在の荒れ果てた寺地を守っていたとされる。(善光寺 フレッシュアイペディアより)
-
善光寺から見た長野盆地
特に戦国時代の、善光寺平は信濃侵攻を行う甲斐国の武田晴信(信玄)と北信国衆を庇護する越後国の上杉謙信の争いの舞台となり、寺は兵火を被り荒廃した。この後、善光寺仏は寺地を地方に流転することになるが、行く先については諸説ある。通説では、善光寺の焼失を懸念した信玄により本尊は善光寺別当の栗田氏と共に武田氏居館のある甲府へ移され、この時に建てられたのが今日の甲府市にある甲斐善光寺であるという。別の説では、善光寺を保護したのは上杉謙信であり、本尊や仏具は高梨氏によって越後国の十念寺(浜善光寺)に移された後、国替えによって現在は法音寺 (米沢市)と熊野神社 (南陽市)にあるとされる。(善光寺 フレッシュアイペディアより)
スポンサーサイト