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善光寺から見た色葉字類抄
善光寺縁起は、扶桑略記で記されているのを始めに、時代を経るごとに追記や改変がされていった。院政期に書かれたとされる『伊呂波字類抄』にその引用があり、その記述には日本の仏教公伝の旧説とされる552年から丁度50年後の602年(推古天皇10年)に若麻績東人(本田善光)が仏像を入手して信濃に持ち帰り、更に166年を経た768年(神護景雲2年)に至ったことが記されている。『伊呂波字類抄』が参照した原典は、768年に書かれた善光寺の「古縁起」であったと見られている。田島公は推古天皇の時代、信濃国の大部分はヤマト王権(大和朝廷)の支配下にあって他の東国諸国とともに貢納を行っていたと推定されること(「東国の調」)、768年前後には称徳天皇・道鏡の下で仏教振興政策が取られており、既存寺院の把握も行われていたことから、本田善光の説話は全くの創作ではなく、768年に作成された善光寺の「古縁起」のモデルとなった伝承が存在したと唱えている。善光寺のものと確証が得られている訳ではないが境内の遺跡から古代寺院の古瓦が出土しており9世紀の物と鑑定されている。(善光寺 フレッシュアイペディアより)
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善光寺から見た和田氏
治承・寿永の乱(源平合戦)が本格化する直前の治承3年(1179年)3月24日、善光寺は大火災が発生している(『吾妻鏡』文治3年7月27日条)。この火災は『平家物語』(巻第二)でも取り上げられており、当時の緊迫した情勢に関わる(園城寺系の善光寺と延暦寺系の顕光寺の対立や、親平氏政権派と反平氏政権派の対立など)「事件」とも言われているが、火災の原因については不明である。その後、信濃国が関東御分国になったのをきっかけとして文治3年(1187年)に源頼朝が信濃国守護兼目代を務める比企能員を通じて同国の御家人に対し善光寺の再建を命じ、建久8年(1197年)には頼朝自らが善光寺に参詣した。頼朝参詣のことは、当該年の記述を欠いた『吾妻鏡』には載せられていないものの、九州の御家人であった相良四郎も随兵として従ったことが相良氏に伝わる善光寺参拝の随兵交名から知ることができる(『大日本古文書』相良家文書1-1号)。その後も鎌倉幕府及び北条氏による再建・造営事業は継続され、特に熱心であったのは北条氏庶流の名越氏一族であった。名越朝時は善光寺の再建事業を支援しただけでなく、自らも鎌倉に新善光寺(現在は葉山に移転)を創建して、その遺言に従って寛元4年(1246年)3月14日に名越氏一族主催による落慶供養が実施された。同年に発生した宮騒動の影響で名越氏一族は没落するが、続いて同じ北条氏庶流の金沢氏が善光寺・新善光寺の保護に努めた。善光寺の再建事業は北条氏以外の御家人の間にも善光寺への関心を高め、念仏や禅と同様に武士の間に善光寺信仰が受け入れられるきっかけとなっていった。中世以降の善光寺信仰の広まりから鎌倉時代以降、信仰者が夢で見たとされる善光寺本尊を模した像が多く作られ、日本の各地に「善光寺」や「新善光寺」を名乗る寺も建てられた。さらに、全国に広めたのは熊野聖などの勧進聖たちによってである。後深草院二条の「とはずがたり」には半年余にわたり市内の有力者であった和田氏の館(長野運動公園のあたりと考えられている)に滞在して参詣した旨の記述がある。(善光寺 フレッシュアイペディアより)