194件中 81 - 90件表示
  • 善光寺

    善光寺から見た関東御分国

    治承・寿永の乱(源平合戦)が本格化する直前の治承3年(1179年)3月24日、善光寺は大火災が発生している(『吾妻鏡』文治3年7月27日条)。この火災は『平家物語』(巻第二)でも取り上げられており、当時の緊迫した情勢に関わる(園城寺系の善光寺と延暦寺系の顕光寺の対立や、親平氏政権派と反平氏政権派の対立など)「事件」とも言われているが、火災の原因については不明である。その後、信濃国が関東御分国になったのをきっかけとして文治3年(1187年)に源頼朝が信濃国守護兼目代を務める比企能員を通じて同国の御家人に対し善光寺の再建を命じ、建久8年(1197年)には頼朝自らが善光寺に参詣した。頼朝参詣のことは、当該年の記述を欠いた『吾妻鏡』には載せられていないものの、九州の御家人であった相良四郎も随兵として従ったことが相良氏に伝わる善光寺参拝の随兵交名から知ることができる(『大日本古文書』相良家文書1-1号)。その後も鎌倉幕府及び北条氏による再建・造営事業は継続され、特に熱心であったのは北条氏庶流の名越氏一族であった。名越朝時は善光寺の再建事業を支援しただけでなく、自らも鎌倉に新善光寺(現在は葉山に移転)を創建して、その遺言に従って寛元4年(1246年)3月14日に名越氏一族主催による落慶供養が実施された。同年に発生した宮騒動の影響で名越氏一族は没落するが、続いて同じ北条氏庶流の金沢氏が善光寺・新善光寺の保護に努めた。善光寺の再建事業は北条氏以外の御家人の間にも善光寺への関心を高め、念仏や禅と同様に武士の間に善光寺信仰が受け入れられるきっかけとなっていった。中世以降の善光寺信仰の広まりから鎌倉時代以降、信仰者が夢で見たとされる善光寺本尊を模した像が多く作られ、日本の各地に「善光寺」や「新善光寺」を名乗る寺も建てられた。さらに、全国に広めたのは熊野聖などの勧進聖たちによってである。後深草院二条の「とはずがたり」には半年余にわたり市内の有力者であった和田氏の館(長野運動公園のあたりと考えられている)に滞在して参詣した旨の記述がある。善光寺 フレッシュアイペディアより)

  • 善光寺

    善光寺から見た越後国

    特に戦国時代の、善光寺平は信濃侵攻を行う甲斐国の武田晴信(信玄)と北信国衆を庇護する越後国の上杉謙信の争いの舞台となり、寺は兵火を被り荒廃した。この後、善光寺仏は寺地を地方に流転することになるが、行く先については諸説ある。通説では、善光寺の焼失を懸念した信玄により本尊は善光寺別当の栗田氏と共に武田氏居館のある甲府へ移され、この時に建てられたのが今日の甲府市にある甲斐善光寺であるという。別の説では、善光寺を保護したのは上杉謙信であり、本尊や仏具は高梨氏によって越後国の十念寺(浜善光寺)に移された後、国替えによって現在は法音寺 (米沢市)と熊野神社 (南陽市)にあるとされる。善光寺 フレッシュアイペディアより)

  • 善光寺

    善光寺から見た天領

    善光寺門前の参道は北国街道のルートともされ、門前町は同時に宿場町としての役割も兼ねた都市として発展し、善光寺町(または善光寺宿)と呼ばれるようになった。しかし、検地帳上の公的な村名は長野村であり、「善光寺町」とは同村内の町場を総称する地名であった。その一方で長野村内だけでなく、同村に隣接する松代藩領または幕府領である妻科村(現長野市大字南長野)、権堂村(現長野市大字鶴賀の一部)のうちで町場化した区域も含めて「善光寺町」と呼ぶこともあった。善光寺 フレッシュアイペディアより)

  • 善光寺

    善光寺から見たお蔭参り

    江戸時代には、「お伊勢参り」の帰りに「善光寺参り」を行う場合もあった。善光寺 フレッシュアイペディアより)

  • 善光寺

    善光寺から見た浜善光寺

    特に戦国時代の、善光寺平は信濃侵攻を行う甲斐国の武田晴信(信玄)と北信国衆を庇護する越後国の上杉謙信の争いの舞台となり、寺は兵火を被り荒廃した。この後、善光寺仏は寺地を地方に流転することになるが、行く先については諸説ある。通説では、善光寺の焼失を懸念した信玄により本尊は善光寺別当の栗田氏と共に武田氏居館のある甲府へ移され、この時に建てられたのが今日の甲府市にある甲斐善光寺であるという。別の説では、善光寺を保護したのは上杉謙信であり、本尊や仏具は高梨氏によって越後国の十念寺(浜善光寺)に移された後、国替えによって現在は法音寺 (米沢市)と熊野神社 (南陽市)にあるとされる。善光寺 フレッシュアイペディアより)

  • 善光寺

    善光寺から見た地蔵盆

    8月23日 地蔵盆(じぞうぼん) ぬれ仏、六地蔵、仲見世の延命地蔵など、境内各所の地蔵尊を巡回し、子どもの健全育成を祈願。善光寺 フレッシュアイペディアより)

  • 善光寺

    善光寺から見た和光寺

    白雉5年(654年)より絶対秘仏とされている善光寺の本尊、「善光寺式阿弥陀三尊」は、天竺の月蓋長者が鋳写したものとされ、百済の聖王(聖明王)を経て、献呈されたか、難波の津に漂着されたものとされる。日本に来るも廃仏派の物部氏によって捨てられる(一説に和光寺)が、本田善光に拾われ、小山善光寺から信濃の元善光寺に、次いで現在地に遷座したと伝えられる。創建時期は不明だが、近江国周辺で見られる湖東式軒丸瓦が発掘されている。善光寺 フレッシュアイペディアより)

  • 善光寺

    善光寺から見た女人禁制

    特徴として、日本において仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺院であることから、宗派の別なく宿願が可能な霊場と位置づけられている。また女人禁制があった旧来の仏教の中では稀な女性の救済が挙げられる。善光寺 フレッシュアイペディアより)

  • 善光寺

    善光寺から見た長野中央通り

    長野駅を出ると善光寺表参道(中央通り)という一本道が通っており、緩やかな坂道となっている。善光寺 フレッシュアイペディアより)

  • 善光寺

    善光寺から見た長野駅

    東日本旅客鉄道信越本線長野駅善光寺口1番乗り場よりアルピコ交通(長野支社)10系統「善光寺」行き、11系統「宇木」行き、16系統・17系統「若槻西条」行きのいずれかに乗り、「善光寺大門」バス停下車(150円)。善光寺 フレッシュアイペディアより)

194件中 81 - 90件表示

「善光寺」のニューストピックワード