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埼玉西武ライオンズから見たプレーオフ制度 (日本プロ野球)
この年より監督に就任した広岡達朗の下、チームの改革を実施した。その効果はすぐに現れ、前期優勝を果たす。後期は序盤つまずくと残り試合をプレーオフ対策に費やし、1982年のパシフィック・リーグプレーオフでは後期優勝の日本ハムの江夏豊を攻略し、3勝1敗でプレーオフを制し、19年ぶりのリーグ優勝を達成。日本シリーズでも中日ドラゴンズを4勝2敗で破り、チームとして24年ぶり、西武としては初の日本一を達成する。(埼玉西武ライオンズ フレッシュアイペディアより)
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埼玉西武ライオンズから見たマジェスティック・アスレティック
作者の手塚によると、堤オーナーから直接「引退中のジャングル大帝レオを球団マークとして復帰させてみる気はないですか」との連絡があり、さらに「子供のレオではなく、大人になってからのレオに衣服(ユニフォーム等)を着用させて使いたい」との意向も示され、球団マスコットとしてレオが(人型で)登場した。発表後、手塚の周囲では「あれはレオじゃなくて父親のパンジャじゃないか。パンジャ球団にでもするのか」などと冷やかされたそうで、マスコットには他に女性キャラのライナがいるが、こちらは球団としてのオリジナルキャラクターとなるため、鼻の頭の色や目の大きさなど何度も作りなおした末に仕上げ、思い出深いキャラクターになったという。実際その後、手塚の自室ではさまざまなライナの失敗作を飾っていたとのこと。共に当初は背番号無し(のちにユニフォームのスポンサー・ナイキ→マジェスティック・アスレティックのロゴが入る)。また、このマスコットは「異競技交流」の一環として、2003-2004年シーズンに西武鉄道アイスホッケー部を統合したコクドアイスホッケーチームにも使用された(チームが西武プリンスラビッツとなった2006年からは使用せず)。(埼玉西武ライオンズ フレッシュアイペディアより)
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埼玉西武ライオンズから見た大久保博元
1月1日付で球団名を埼玉西武ライオンズに変更(運営会社は「株式会社西武ライオンズ」のまま)。渡辺久信が二軍監督から一軍監督に昇格し、黒江透修をヘッドコーチに、大久保博元を打撃コーチにするなどコーチ陣を一新した。その結果、打撃力がアップし、渡辺はNo Limit打線と名付けた。8月11日には西鉄クリッパース創設以来通算4000勝を達成。これは日本プロ野球では6球団目(2リーグ分裂後にできた球団の中では初)の記録であり、2リーグ分裂後の4000勝は読売ジャイアンツに次いで2球団目である。4月に首位になって以来一度もその座を明け渡さず、9月26日、埼玉西武ライオンズとなって初めての年で4年ぶり21回目のリーグ優勝を決めた。クライマックスシリーズでは、日本ハムとファイナルステージで対戦。4勝2敗で2004年以来、4年ぶりの日本シリーズ出場を決めた。巨人との日本シリーズでは、先に巨人に2勝3敗で王手をかけられたもののその後連勝し、4勝3敗で4年ぶりの日本一を達成する。アジアシリーズでは決勝戦の台湾の統一ライオンズ戦をサヨナラ勝ちで初優勝を達成した。彩の国功労賞を受賞。(埼玉西武ライオンズ フレッシュアイペディアより)
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埼玉西武ライオンズから見たクラウンガスライター
新監督に就任したレオ・ドローチャーが来日直前に急病で倒れ、春季キャンプは監督不在のまま実施。しかし「オープン戦までには来日できる」「再び健康状態が悪化した」というドローチャー側の二転三転の応答に業を煮やし契約を解除。ヘッドコーチの鬼頭政一が緊急昇格し監督に就任。戦力不足や前年からのゴタゴタの影響もありこの年は前後期とも6位の最下位に終わる。吉岡悟がプロ入り9年目で初の首位打者。10月12日に命名権を持つ冠スポンサーが桜井義晃率いる廣済堂グループ傘下のクラウンガスライターとなり、球団名が改まることが決定した。(埼玉西武ライオンズ フレッシュアイペディアより)