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親なるもの 断崖から見た売春防止法
そして月日は流れ、昭和33年。道生は成人し嫁ぐ日を迎えていた。大河内邸には近所の住民が集まり、ガキ大将だった彼女が花嫁として嫁いで行く姿を見守っていた。人々は大河内の祖母が道生の花嫁姿を見る事なく、亡くなった事を惜しんだ。茂世にあいさつする道生。道生の嫁入り行列が、地球岬を歩いて行く。地球岬の向こうで、新郎・つぐじが道生を出迎えていた。同じ頃、武子は44歳。幕西遊郭は前年(昭和32年)から施行された売春防止法により、長い歴史に幕を下ろそうとしていた。病に倒れた「富士楼」の元女将は危篤状態となっており、武子は「道生が小学校教諭となり、子供達に戦争の恐ろしさを説いている」ことを彼女に教えた。(親なるもの 断崖 フレッシュアイペディアより)
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読売新聞から見た売春防止法
1948年、昭電疑獄において、重要人物の召喚を次々と予告して的中させる、連続特大スクープをおこない、「朝起きたら読売を見る、自分の名前が出ていないのを確認して朝日を読む」といわしめるほどの報道をおこなった。このセンセーショナルな紙面作りを可能にしたのは、記者としての訓練をほとんど受けていない、入社3年目の駆け出し記者、24歳の立松和博である。立松和博の父・懐清は、朴烈事件の予審判事。そのため立松は、検察幹部に可愛がられ、「木内曾益 最高検次長検事―馬場義続・東京高等検察庁次席検事―河井信太郎・東京地方検察庁主任検事」のラインに結びつくことに成功した。当時、GHQ内は、日本の占領統治をめぐって、右のチャールズ・ウィロビー少将と左のチャールズ・L・ケーディスが対立・分裂しており、ウィロビー少将は自由党の吉田茂を支持していた。「木内?馬場?河井」の検察ラインは、芦田均内閣を潰そうとするGHQの政治的思惑にそって、昭電疑獄をでっちあげて、検察が政治を支配する時代をつくりあげたのである。河井信太郎は、馬場の黙認の下、捜査情報を読売新聞にリークし続けた。検察は、読売新聞一社のみにスクープを独占・継続させることを通して、強烈なインパクトを各界にあたえ、芦田連立政権を崩壊させることに成功した。ただ、立松は、読売の連続スクープに息巻く他社の記者たちから、河井がネタ元であることを悟らせないようにするため、細心の注意を払わざるをえず、睡眠不足と疲労からヒロポンを打つほど心身がボロボロになり、ほどなくして休職に追いこまれることになる。1957年の売春防止法の読売新聞における大誤報事件は、取材体制の出遅れにあせった景山与志雄社会部長が、昭電疑獄時のエース記者、立松を病欠から呼びもどしたことからはじまった、という。なお、司法記者クラブが検事の家に夜討ち朝駆けをして「ネタ」を物乞いする習慣は、昭電疑獄から始まり、造船疑獄で定着、ロッキード事件やダグラス・グラマン事件、リクルート事件では、検察関係者による報道機関に対するリーク、すなわち検察リークが猛威を振るうことになる。検事たちが思いあがり、報道機関が検察批判をすると、ただちに「出入り禁止」にする慣行は、三田和夫によれば、読売新聞による昭電疑獄・造船疑獄報道が原因、と、読売新聞の行為を厳しく断罪している。(読売新聞 フレッシュアイペディアより)