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ダージリン・ヒマラヤ鉄道から見た夜行列車
コルカタなどから夜行列車でニュー・ジャルパーイーグリーで下車し、駅内で乗り換える。幹線の主要な列車はニュー・ジャルパーイーグリーで連絡しており、インドでは日常茶飯である遅延があっても待っていてくれる。(ダージリン・ヒマラヤ鉄道 フレッシュアイペディアより)
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富士山麓電気鉄道3100形電車から見た夜行列車
側扉は1両あたり2か所に1,300mm幅の片開扉が設けられたが、運転台直後の出入口は客室と仕切られたデッキ付構造となっているのが特徴である。これは、中央本線夜行列車に大月駅で接続して登山・レジャー客を輸送する早朝運転の臨時列車や、団体臨時列車としての運転時、大月駅や河口湖駅などでは寒冷期の未明での長時間停車が想定されたためで、連結面寄りのドアを締め切り、デッキ部分のドアのみを使用して保温を図る意図があった。また、編成として見た場合、各扉の間隔をできるだけ均等にする設計がなされており、この思想は同じ日本車両製で共通点の多い、秩父鉄道300系や福井鉄道200形にも受け継がれている。(富士山麓電気鉄道3100形電車 フレッシュアイペディアより)
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河内淳一のディスコグラフィから見た夜行列車
Night Train(作詞:田口俊・作曲:河内淳一・編曲:JOHN CAPEK)河内自身は生まれも育ちも浅草なので、家を飛び出して夜行列車(=Night Train)に乗って都会へ…という経験は無いが、子供の頃に抱いていた周囲が持つ保守的な姿勢に対する反発心をデフォルメも施して歌にしたものである。(河内淳一のディスコグラフィ フレッシュアイペディアより)
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堺・なんば・京都 - 柏崎・長岡線から見た夜行列車
本路線開設以前、新潟県中越地方から関西へ乗り換え無しで直通する交通手段は夜行急行列車「きたぐに」に限られており、日中は新潟市内にある新潟空港から航空路線を利用するか、もしくは特急「北越」を利用し、金沢駅で特急「雷鳥」・「サンダーバード」への乗り継ぎを要していた。(堺・なんば・京都 - 柏崎・長岡線 フレッシュアイペディアより)
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サンロクトオから見た夜行列車
それまで夜行列車といえば座席車・寝台車の両方を連結しているものが主流であったが、この改正では寝台車が編成の大半を占め、座席車はまったく連結していないかあってもわずかという「寝台専用列車」が各線で新設・増発された。なお、このような形態の列車は、1957年(昭和32年)10月に東京 - 大阪間で運行を開始した急行列車「彗星」が始まりとされる。座席利用需要については、昼行列車用の電車・気動車を用いた座席車編成のみの列車を、寝台列車の前後の時間に運行することでフォローした。これによって、寝台車のみを増備することで、需要増加に伴う車両増備の問題に対処できた。(サンロクトオ フレッシュアイペディアより)
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1872年-1907年の国鉄ダイヤ改正から見た夜行列車
この年8月1日実施の改正では東海道線に夜行急行列車が設定され、急行が2往復になった。また、新橋駅 - 横浜駅を無停車で走り38分で結ぶ短距離急行も2往復新設されている。山陽鉄道でもこの時同時に改正が行われ、急行列車の速度を大幅に向上させるとともに、それ用の客車は高速運転に適したボギー台車装備の大型車に全て置き換えられた。加えて列車給仕(列車ボーイ)を急行に乗車させるようになり、電灯を取り付けるなど、旅客サービス面も含めて全国の鉄道に先駆けた施策が次々に施されるようになった。これには瀬戸内海航路との競合があったことが一因であると言われている。官営鉄道もこれを追いかける形で同様の施策を行った。(1872年-1907年の国鉄ダイヤ改正 フレッシュアイペディアより)
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1949年9月15日国鉄ダイヤ改正から見た夜行列車
またこの時、東京駅 - 大阪駅間に急行15・16列車という画期的な夜行列車も設定された。何が画期的かといえば、三等車が全く連結されず、更に「銀河」という愛称が付けられていたのである。急行列車の愛称は、戦前の朝鮮総督府鉄道や南満州鉄道では例があったが、本土では初のものであった。しかし、一・二等車のみの編成であったことから利用客数は伸びず、他の列車は混雑しているのにこの列車だけガラガラの短編成で走っている事に批判が集まり、わずか数日後には何両か三等車が連結されるようになっている。(1949年9月15日国鉄ダイヤ改正 フレッシュアイペディアより)
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1956年11月19日国鉄ダイヤ改正から見た夜行列車
また、この「あさかぜ」は関東地方と九州地方の速達連絡を主題にして設定されたため、それまでならば利用しやすい時間に通過していた関西地方を上下とも深夜(2時 - 3時)に通過させる時刻設定にした。これは当然ながら同地区からの反発を招いたが、同列車推進派の中には「大阪が反対するなら大阪駅は通過させず、同駅の北を通過する北方貨物線を通す」という強硬論もあったといわれる。これについては、「あさかぜ」と同時に関西から九州へ向かう夜行急行列車「天草」・「玄海」を誕生させるということで決着付けている。(1956年11月19日国鉄ダイヤ改正 フレッシュアイペディアより)