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大坂城から見た河内国
1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が死去、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで石田三成が敗れ、徳川家康によって東軍への恩賞という形で所領が分配された結果、220万石の大大名から摂河泉65万7千400石の一大名に転落した豊臣氏であったが、遺児の豊臣秀頼は依然として豪華絢爛たる大坂城を居城としていた。しかし、1614年(慶長19年)に勃発した大坂冬の陣において、講和条件として大坂城は惣構・三の丸・二の丸の破却が取り決められ、大坂城は内堀と本丸のみを残す裸城にされてしまう。秀頼は堀の再建を試みたために講和条件破棄とみなされ、冬の陣から4か月後の1615年(慶長20年)、大坂夏の陣で大坂城はついに落城し、豊臣氏は滅亡した。(大坂城 フレッシュアイペディアより)
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大坂城から見た古墳
大坂城は、上町台地の北端に位置する。かつて、この地のすぐ北の台地下には淀川の本流が流れる天然の要害であり、またこの淀川を上ると京都に繋がる交通の要衝でもあった。元々は古墳時代の古墳があったと言われ、戦国時代末期から安土桃山時代初期には石山本願寺があったが、1580年(天正8年)に石山合戦で焼失した。『信長公記』によると信長はこの立地を高く評価しており、跡地にさらに大きな城を築く予定であったという。石山合戦終結後は織田信長の命令で丹羽長秀に預けられた後、四国攻めを準備していた津田信澄が布陣し「千貫矢倉」もあった(『細川忠興軍功記』)が信澄は本能寺の変の際に、丹羽長秀に討たれた。その後、清州会議で池田恒興に与えられるも、ただちに美濃へ国替えとなり、秀吉によって領有された。そして秀吉によって大坂城が築かれ、豊臣氏の居城および豊臣政権の本拠地となったが、大坂夏の陣で豊臣氏の滅亡とともに焼失した。徳川政権は豊臣氏築造のものに高さ数メートルの盛り土をして縄張を改め再建した。その後、江戸幕府が大坂城代を置くなど近畿地方、および西日本支配の拠点となった。文献等にもよるが、日本三名城のひとつに数えられる場合もある。(大坂城 フレッシュアイペディアより)
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大坂城から見た若松城
豊臣大坂城のものと見られている平面図『本丸図』では、山里曲輪とを隔てる本丸の詰の石垣沿い、本丸の北東隅に描かれている。天守台いっぱいには建てられず、若松城天守のように余地を残して天守曲輪を持っていたと考えられている。天守は、複合式もしくは連結式望楼型5重6階地下2階であったと考えられており、外観は、黒漆塗りの下見板張りで、漆喰壁部分も灰色の暗色を用いて、金具や、瓦(金箔瓦)などに施された金を目立たせたと考えられている。一説には、壁板に金の彫刻を施していたというものもある。なお、5階には、黄金の茶室があったといわれている。最上階は、30人ほど入ると関白の服に触れるほどであったとルイス・フロイスの『日本史』にある。(大坂城 フレッシュアイペディアより)
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大坂城から見た備前国
また、現存する石垣も多くが当時の遺構である。江戸時代の大坂城は、徳川幕府の三期に渡る天下普請によって再築された。石垣石は瀬戸内海の島々(小豆島・犬島・北木島など)や兵庫県の六甲山系(遺跡名:徳川大坂城東六甲採石場)の石切丁場から採石された花崗岩である。また遠くは福岡県行橋市沓尾からも採石された。石垣石には、大名の所有権を明示するためや作業目的など多様な目的で刻印が打刻されている。ちなみに高さ5〜6mで最大幅14mに達する巨石が数多く使われている。最大の巨石であり、備前国岡山藩主池田忠雄が運んできた本丸桜門枡形にある蛸石の重量は最大130トンと推定され、エジプト・ギザの大ピラミッドの積石が1個約2.5トンであるのと比べ、その巨大さがわかる。ピラミッド内部にある花崗岩でさえ約80トンと言われる。また、イギリス・ストーンヘンジで最大の石は高さ6.6mで45トンである。大阪市内には石垣に使われず放置された石材があり「残念石」と言われている。運搬時に落ちた石は「落城」に通じ縁起が悪いとされ捨てられた説がある。現存する多くの鏡石はさほど厚みが無く本来の石垣の表に置かれた化粧石の役目になっている。(大坂城 フレッシュアイペディアより)
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大坂城から見た大阪経済法科大学
徳川氏は大坂城を再建するにあたり、豊臣大坂城の跡を破却して盛り土した上に、縄張を変更して築城したため、現在の大坂城址で見ることができる遺構や二重の堀、石垣は、みな江戸時代の徳川大坂城のものである。大坂の陣で埋め立てられた惣堀を含む豊臣大坂城の遺構は、大阪城公園や周辺のビル・道路の地下に埋没したままで、発掘も部分的にしか行なわれていない。村川行弘(大阪経済法科大学名誉教授・考古学)らによる昭和中期の大坂城総合調査により徳川氏本丸の地下からは秀吉時代の石垣が見つかっており、現在は普段は一般には開放されていない蓋付きの穴の底に保存されている。また、2003年(平成15年)には大手前三の丸水堀跡の発掘調査で、堀底からは障壁のある障子堀が検出され、堀の内側の壁にトーチカのような遺構も見つかった。また、この発掘調査によって、堀自体が大坂冬の陣のときに急工事で埋められたことを裏付ける状況証拠が確認されている。豊臣時代の石垣を公開する計画があり、そのための募金活動が平成25年から行われている。(大坂城 フレッシュアイペディアより)
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大坂城から見た西日本
大坂城は、上町台地の北端に位置する。かつて、この地のすぐ北の台地下には淀川の本流が流れる天然の要害であり、またこの淀川を上ると京都に繋がる交通の要衝でもあった。元々は古墳時代の古墳があったと言われ、戦国時代末期から安土桃山時代初期には石山本願寺があったが、1580年(天正8年)に石山合戦で焼失した。『信長公記』によると信長はこの立地を高く評価しており、跡地にさらに大きな城を築く予定であったという。石山合戦終結後は織田信長の命令で丹羽長秀に預けられた後、四国攻めを準備していた津田信澄が布陣し「千貫矢倉」もあった(『細川忠興軍功記』)が信澄は本能寺の変の際に、丹羽長秀に討たれた。その後、清州会議で池田恒興に与えられるも、ただちに美濃へ国替えとなり、秀吉によって領有された。そして秀吉によって大坂城が築かれ、豊臣氏の居城および豊臣政権の本拠地となったが、大坂夏の陣で豊臣氏の滅亡とともに焼失した。徳川政権は豊臣氏築造のものに高さ数メートルの盛り土をして縄張を改め再建した。その後、江戸幕府が大坂城代を置くなど近畿地方、および西日本支配の拠点となった。文献等にもよるが、日本三名城のひとつに数えられる場合もある。(大坂城 フレッシュアイペディアより)