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式守勘太夫 (5代)から見た番付
相撲字に関しては「名人」と称され能筆で、永らく番付の書き手(戦後2人目)を務めた(1952年1月 - 1966年9月、行司引退後も停年まで務めた)。読売新聞東京本社発行、隔月刊「大相撲」(2010年9月号を最後に休刊)の表紙題字1は5代勘太夫の書によるものである(目次欄に「題字・鏡山勘太夫」と記載されている)。(式守勘太夫 (5代) フレッシュアイペディアより)
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木村庄之助 (25代)から見た番付
1971年末、大相撲史上初の行司のストライキを起こした。行司一同が日本相撲協会の改革案を不満として一日ストに入った時の行司最高責任者であり、その直後の1972年1月場所8日目、関脇貴ノ花対横綱北の富士戦の取り組みで物言いがつき、行司差し違えと判断され、進退伺いを拒否したため協会からの処分は出場停止となった。同時にストの責任者ということもあり、3月場所直前に自ら相撲協会に辞表を提出、停年を前にして退職した(番付編成後に退職したため、3月場所の番付には「木村庄之助」と記載されたままとなる)。協会は、11月場所までは庄之助を空席とし、翌1973年1月場所より立行司22代式守伊之助を26代庄之助に昇格させた。(木村庄之助 (25代) フレッシュアイペディアより)
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両國梶之助 (國岩)から見た番付
引退後は入間川部屋を創設して多くの力士を育成しながら、常陸山を補佐する。1922年に常陸山が没すると、その跡を継いで出羽ノ海部屋を率いたが、その際に常陸山への敬意として「ノ」を外して「出羽海部屋」と改めた。その後は常陸山が生前に角界随一の名門部屋に育て上げた部屋を盛り立て、最終的には番付の片側を出羽海一門で占めるほどの隆盛を極めた。年寄・出羽海としても武藏山武・両國梶之助(瓊ノ浦)・五ツ嶋奈良男・新海幸藏・笠置山勝一など、戦前の大相撲を代表する力士を多数育成した。(両國梶之助 (國岩) フレッシュアイペディアより)