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  • 和晃敏郎

    和晃敏郎から見た番付番付

    以来、着実に番付を上げてゆき、1965年5月場所で十両へ昇進した。だが、軽量と生来の気の弱さにより、本場所中は取組への不安から鎮静剤が無いと夜眠れなかったという。その後十両下位と幕下を往復する状況が3年以上続いたが、徐々に十両でも成績が残せるようになり、1969年9月場所で新入幕を果たした。和晃敏郎 フレッシュアイペディアより)

  • 麒麟児和春

    麒麟児和春から見た番付番付

    1979年に左膝を負傷して十両陥落。その後小結まで番付を戻すが1981年以降になると、次第に上位には通じなくなり、幕内上位では負け越し、番付が下がると勝ち越すというパターンの繰り返しが続き、いわゆるエレベーター力士として引退まで幕内に長く留まった。昭和天皇も「麒麟児は今度は勝ち越す番だね。下位に下がったから」と言ったエピソードがあり、引退までのほとんどがこの星取りパターンだった。1981年7月場所から1984年11月場所まで実に21場所の間、地方場所では勝ち越し、東京場所では負け越しを交互に繰り返している。両国国技館杮落としの1985年1月場所では9勝6敗と勝ち越し、このパターンをストップさせたものの、逆に翌3月場所で4勝11敗と負け越した。また1986年11月場所から1988年5月場所までの10場所間は地方場所で勝ち越し、東京場所で負け越しというパターンを辿っている。麒麟児和春 フレッシュアイペディアより)

  • 日本相撲協会

    日本相撲協会から見た番付番付

    1927年1月7日 - 新しい番付を発表(1925年から1926年にかけて行われた東西連盟大相撲の成績をもとに作成)日本相撲協会 フレッシュアイペディアより)

  • 輪島 大士

    輪島大士から見た番付番付

    ちゃんこ番等の雑務を免除され寝食を日大の宿舎で過ごさせ、食事は師匠の自宅に呼んで食べさせるという異例の特別待遇で入門し、幕下を2場所連続で全勝優勝して当時の最短記録で十両入り、十両も4場所で通過して初土俵からわずか1年で新入幕を果たした。三役昇進前から私生活は派手であり、場所入りの際にはリンカーン・コンチネンタルを乗り回していた。また髷を結う前の髪を伸ばしている時期にパーマを当てたり、トレーニングにランニングを取り入れたりして物議をかもした。1972年9月場所では千秋楽に貴ノ花との水入りの大相撲を制して、場所後に貴ノ花とともに大関に昇進した(大関昇進を機に、番付の四股名を「輪島博」から「輪島大士」に改名)。この取り組みは当時の皇太子ご一家が観覧されていた(皇太子、皇太后、現在の徳仁親王の3名)。7月場所が8勝7敗止まりであったことから本人もこの9月場所で昇進を決めることは諦めていたようであり、インタビュー記事での「清國、琴櫻、大麒麟の先輩3大関と比べ、自分はどこが違うか」という質問に対しても「先輩の皆さんは、すぐにも大関だ、大関だと言われながら苦労してなったでしょう。その点自分なんか運のいい男ですよ。まだ苦労が身についていないと思うんです」と話していた。大関昇進当初は横綱昇進を掴み取れるかどうかについて「『やっぱりやってみなくちゃ分からない』という答えしか出せない」と話していたが、大関になって4場所目の1973年5月場所を全勝優勝で飾り場所後に横綱に推挙され、初土俵からわずか3年半という超スピード出世で横綱へ上りつめ、史上初の学士・本名横綱が誕生した。輪島大士 フレッシュアイペディアより)

  • 力士会

    力士会から見た番付番付

    毎場所ごとに番付発表の翌日に開催され、ここで新十両昇進力士の紹介や引退力士への記念品贈呈、関取衆の身体測定(身長・体重)などが行われる。また、引退相撲に関しては力士会は無償で出場することが慣例となっている。力士会 フレッシュアイペディアより)

  • 北天佑勝彦

    北天佑勝彦から見た番付番付

    1976年1月場所、本名の千葉で初土俵。1978年1月場所、幕下昇進を機に北天佑勝彦と改名。幕下時代の1979年7月場所では三保ヶ関部屋の力士が流行性肝炎に多数感染。北天佑もその一人で初日から休場するも8日目から出場している。1980年3月場所、東幕下2枚目で7戦全勝で幕下優勝を果たし、翌5月場所に19歳で十両昇進。十両を3場所で通過して同年11月場所20歳で新入幕。入幕3場所目の1981年3月場所横綱若乃花から初金星を獲得。翌5月場所では9勝6敗で初の敢闘賞を受賞し、7月場所で小結昇進。以後3場所連続で小結を保つも、同年末にはバラエティ番組の収録中に怪我をしたことによる休場のため一度は幕尻まで下がる。しかし徐々に番付を戻し1982年9月場所では若乃花、千代の富士の両横綱から金星を獲得し10勝5敗の成績で2度目の敢闘賞。翌11月場所で小結に復帰。その場所では8勝7敗と勝ち越し殊勲賞を受賞。さらに新関脇の1983年1月場所で11勝4敗。3月場所は12勝3敗の成績を挙げ、初の大関挑戦となった5月場所では14勝1敗で初優勝を果たした。特に優勝決定の一番は北天佑の「勇み足」ではないかと物言いが付き、北天佑の足が出るのと出羽の花の体が崩れるのが同時という判定が下った末に北天佑が取り直しの一番で左に変化して勝利を掴んだものであった。これにより大関昇進目安条件の三役3場所33勝を大幅に上回る37勝8敗で推挙された。北天佑勝彦 フレッシュアイペディアより)

  • 四股名

    四股名から見た番付番付

    改名するときは、各場所の千秋楽から番付編成会議までの間に改名届を提出し、編成会議において承認される。四股名 フレッシュアイペディアより)

  • 魁皇博之

    魁皇博之から見た番付番付

    引退相撲を控えた2012年4月4日・11日に放送されたNHK『鶴瓶の家族に乾杯』に出演し、笑福亭鶴瓶とともに熊本県人吉市を訪れた。行き先の店でかつて昭和初期に双葉山らが人吉で巡業を行ったときの板番付が勧進元の人物の孫が経営する和菓子店に今も残されているのを聞き、現物を見て驚きを見せた。また、同行していた枝川親方も同じく驚いていた。魁皇博之 フレッシュアイペディアより)

  • 出島武春

    出島武春から見た番付番付

    1996年3月場所において幕下付出で初土俵を踏んだ。部屋では武蔵丸や武双山といった稽古相手に恵まれ、本人が「大学の4年間よりプロに入っての半年の方が伸びた」というとおり、番付を駆け上がっていった。立合いからの出足はプロ入り以降武蔵川の厳しい指導によって鍛えられたものであり、入門前は寧ろ学生相撲出身者にありがちな立合いの甘さがあった。入門から半年の同年9月場所に初土俵から3場所で十両に昇進し、十両も3場所で通過して1997年3月場所に新入幕を果たした。ここまで負け越し知らずの出世だった。出島武春 フレッシュアイペディアより)

  • 白鵬翔

    白鵬翔から見た番付番付

    四股名は、横綱・大鵬と柏戸に因んで柏鵬(はくほう)とする案があったが、色白だったことから白鵬と付けられた(幕内・千代白鵬と四股名が比較されるが、命名は千代白鵬が先)。2001年3月場所に初土俵を踏むが、番付に名前が載った翌5月場所は身体の小ささもあり3勝4敗の成績で、後の横綱(しかも大横綱)としては異例の序ノ口での負け越しを経験する。しかし、入門当時身長175cm、体重68kgだった体は、食文化の違いを苦にせず大食漢だったことと熱心な稽古によって大きく成長し続けた。急激な肉体の成長と才能の開花に歩を合わせるかのように番付を駆け上がり、部屋で稽古を付けていた光法は、「あの白鵬って子、一晩眠るたびに強くなっている。2 - 3年後には化粧まわしや白い稽古まわし(共に関取の象徴)を身につける身分になりますよ!」と驚いていた。実際、皆勤して負け越したのは前述の2001年5月場所と三段目時代の2002年7月場所(3勝4敗)の2場所だけで、これ以降は休場を除いて負け越していない。相撲教習所時代は1度だけ寝坊して教習所に遅刻しそうになったが、遅刻しないように下駄を持って裸足で走って間に合わせた。白鵬翔 フレッシュアイペディアより)

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