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  • 二瀬川政一

    二瀬川政一から見た番付番付

    1931年5月場所初土俵、その後ゆっくりではあったが着実に昇進し、1940年5月場所新入幕を果たした。ところがこの場所、横綱双葉山をはじめ上位陣に休場者が多く、相手方の横綱男女ノ川の対戦相手を番付の上から数えていくと、二瀬川にあたってしまったので、13日目、前日まで5勝7敗であったのに対戦が組まれ、敗れて負け越してしまった。しかし、5勝10敗の成績では十両に落ちる危険があったのだが、横綱との対戦があったため、翌1941年1月場所には、張出前頭という形で幕内にとどまることができた。これが幸いしたか、そのあと6場所連続して勝ち越し、大関時代の前田山に連勝したりもし、一気に関脇まで駆け上がった。突き押し相撲のわりには安定した取り口であったので、大関の声もかかったが、新関脇の1944年1月場所から二枚鑑札で朝日山部屋を継いだことの苦労や、その場所の負傷、途中休場のために大関の夢も砕け、その後は勝ち越しも1場所しかなく、1947年6月場所限りで現役を引退、部屋経営に専念した。弟弟子の高津山が関脇に昇進、二瀬山も幕内上位で活躍し、部屋の将来も開けるかというところで急逝、その後の朝日山部屋は中堅部屋で終始することになってしまった。二瀬川政一 フレッシュアイペディアより)

  • 桂文蝶

    桂文蝶から見た番付番付

    天保時代からすでに東西の番付等に確認できる。前座名であった為か何人いたか不明。(『落語系圖』には初代桂文治、3代目桂文治の門に確認できる。)桂文蝶 フレッシュアイペディアより)

  • 玉垣額之助 (4代)

    玉垣額之助 (4代)から見た番付番付

    優勝に相当する成績は7回残している。柏戸利助の好敵手で、当時の川柳には「(玉)垣と(柏)戸を西と東の関に据え」「玉垣も柏(戸)も地から生えたよう」と謳われた。比較的小兵だが技巧派。文化11年(1814年)11月場所では実力本位の番付に変更されたことが影響し、前頭筆頭から一気に大関に昇進した。文政6年(1823年)6月、柏戸と共に五条家から横綱免許を受けたが、柏戸がそれを辞退したのを見てそれに遠慮したのか、綱を締めることは結局なかった。文政7年8月5日、現役中に急死した。玉垣額之助 (4代) フレッシュアイペディアより)

  • 大真鶴健司

    大真鶴健司から見た番付番付

    1992年5月場所初土俵。出世は決して早くはなかったが着実に番付を上げて行き、1997年11月場所には幕下に昇進した。右四つが得意で、その頃から将来を嘱望される様になったが、引いて押し出される相撲が多く幕下上位で苦労した。その間2001年11月場所には幕下優勝を果し十両を狙える地位まで昇進したが、一度は跳ね返された。しかし、2003年11月場所に再び幕下優勝。西幕下16枚目だったが関取定員増加の恩恵を受けて翌2004年1月場所に十両に昇進した。この場所の新十両には大真鶴のほかに後に横綱に昇進する白鵬もいた。大真鶴健司 フレッシュアイペディアより)

  • 大ノ里萬助

    大ノ里萬助から見た番付番付

    元々相撲が好きで1910年(明治43年)に大相撲入りを決意、翌年周囲の制止を振り切って入門を志願、その小ささから驚かれたが熱心さを見た若松が入門を許し1912年(明治45年)1月場所初土俵。1918年(大正7年)5月場所新入幕、4勝5敗1分と負け越すが番付が1枚上がり翌場所には8勝1敗1分けの好成績、1920年(大正9年)1月場所には鳳から金星を獲得。1922年(大正11年)1月場所小結、同年5月場所関脇、1923年(大正12年)1月場所は平幕に下がるがこの場所新横綱の源氏山(のち3代西ノ海)から金星を獲得し1場所で関脇に戻る。1924年(大正13年)5月場所9勝2敗の好成績を挙げて大関になった。この間、兄弟子の八甲山とともに若松部屋から離脱、八甲山は独立して高島部屋をおこしたが、大ノ里は湊川部屋預かりから出羽海部屋に所属した。優勝はないが立派に大関を務め続け、向上心を失わずに稽古に取り組む姿勢や温厚な性格、若手に対する熱心な指導のために「相撲の神様」と呼ばれ、多くの力士たちの人望を集めた。しかし小兵ゆえの弱点を突かれて1929年(昭和4年)以降は6勝5敗という成績が増えた。1931年(昭和6年)5月場所と10月場所は4勝7敗の負越。大ノ里萬助 フレッシュアイペディアより)

  • 舞風昌宏

    舞風昌宏から見た番付番付

    小学5年から相撲を始め、中学時代には相撲部に所属した。3年の夏に尾車部屋を見学に行き入門を決意し、卒業と同時に尾車部屋に入門。(親方は両親が教師なので中卒で入門させるとは半信半疑であったという、また入門のきっかけは尾車親方が馴染み深い十和田市の喫茶店で出会った事からである)1992年3月場所に初土俵を踏んだ。三段目までは順調に番付をあげて行ったが、首の故障、足首の骨折、半月板の損傷など故障が多く、長く三段目、幕下下位で低迷していた。2004年には幕下上位に定着し十両の狙える地位まで番付を上げ、2004年11月場所には東幕下5枚目で6勝1敗と勝ち越し、翌2005年1月場所に初土俵から77場所目で史上11位のスロー記録で十両に昇進した。しかし、押し相撲特有の連相撲が多く勝ち越しに王手をかけながらも千秋楽に負け越すといったこともあり、3場所十両を務めたものの、同年5月場所を最後に幕下に陥落した。右膝の故障もあり本来の相撲が取れず、2006年3月場所には三段目まで陥落した。しかし、三段目に陥落した翌5月場所は序盤から絶好調で、7戦全勝で三段目優勝を果たした。また、優勝はこれが初である。mixiブログで2007年春場所限りでの引退を表明し話題を呼んだ。(春場所は廃業後を見据えて脂肪を落としたために全敗であった。)翌5月場所9日目に正式に引退を表明した。舞風昌宏 フレッシュアイペディアより)

  • 栃偉山弘行

    栃偉山弘行から見た番付番付

    1967年11月場所に本名の大野の四股名で初土俵を踏み、番付に四股名が載った翌1968年1月場所には序ノ口優勝を飾った。長身を活かした取り口で活躍し、1973年9月場所には十両に昇進、関取になれなかった父の無念を晴らす形となった。しかしその場所で4勝11敗と大きく負け越し、結局これが最後の関取経験となってしまった。十両昇進からわずか1年半後の1975年3月場所をもって廃業した。栃偉山弘行 フレッシュアイペディアより)

  • 式守與之吉

    式守與之吉から見た番付番付

    式守與之吉(しきもりよのきち)は、大相撲における行司の名跡である。時代によっては、式守与之吉と名乗っていたこともある。7代目以降は「式守與之吉」と番付に書かれている。現在では2007年9月場所で9代式守與之吉が10代式守勘太夫(現36代木村庄之助)を襲名して以来、空き名跡となっている。式守與之吉 フレッシュアイペディアより)

  • おらおら学園

    おらおら学園から見た番付番付

    おらおら学園を開くと、「でっぱつ」ボタンの下に「番付」ボタンがある。ここには、おらおら学園をプレイした者の得点が299位まで表示される。このランキングは、週2回(日曜、水曜深夜)リセットされ、リセットされてからまたリセットされるまでの間のランキングは左側に、月間のランキングは右側に表示されている。ただし、299位の得点より下の得点を取った場合は表示されない。最高点は、基本的には3万点の時が多い。2万点以上を取ればランキングに載る確率が高い。おらおら学園 フレッシュアイペディアより)

  • サムソン・クツワダ

    サムソン・クツワダから見た番付番付

    1962年1月場所に轡田の四股名で初土俵、1964年1月場所に二瀬海に改名したものの伸び悩み、幕下23枚目の番付となった1967年9月場所限りで廃業した。ちなみに、9月場所は休場で、実質土俵を務めたのは7月場所限り。サムソン・クツワダ フレッシュアイペディアより)

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