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  • 栃偉山弘行

    栃偉山弘行から見た番付番付

    1967年11月場所に本名の大野の四股名で初土俵を踏み、番付に四股名が載った翌1968年1月場所には序ノ口優勝を飾った。長身を活かした取り口で活躍し、1973年9月場所には十両に昇進、関取になれなかった父の無念を晴らす形となった。しかしその場所で4勝11敗と大きく負け越し、結局これが最後の関取経験となってしまった。十両昇進からわずか1年半後の1975年3月場所をもって廃業した。栃偉山弘行 フレッシュアイペディアより)

  • 青嶋貞賢

    青嶋貞賢から見た番付番付

    1891年(明治24年)に刊行された山梨県内の名士を番付にした『峡中名々相撲番附』でも貞賢の名が挙げられている。また、明治30年創刊の文芸誌『峡中文壇』では「峡中文壇の盟主」と評されている。明治29年(1896年)に死去、享年78。青嶋貞賢 フレッシュアイペディアより)

  • 番付上位者優勝制度

    番付上位者優勝制度から見た番付番付

    番付上位者優勝制度(ばんづけじょういしゃゆうしょうせいど)は、大相撲で1909年6月場所で最優秀成績者への優勝掲額制度が発足してから、1947年6月場所で優勝決定戦制度が導入されるまで実施されていた制度で、同点での最高成績者が複数人いた場合にはその場所の番付でより上位にいた者を優勝とするもの。番付上位者優勝制度 フレッシュアイペディアより)

  • 高錦昭應

    高錦昭應から見た番付番付

    現役晩年は幕下44枚目まで番付を落とし、1963年11月場所後、29歳で廃業。高錦昭應 フレッシュアイペディアより)

  • 番付編成会議

    番付編成会議から見た番付番付

    番付編成会議 フレッシュアイペディアより)

  • ナデシコ

    ナデシコから見た番付番付

    江戸時代後期以降、ナデシコには2つの流れが生まれた。一つは「伊勢ナデシコ」であり、背丈は比較的高く、花弁が長く延びるもので、品種により20センチ以上にもなり下垂する。もともと伊勢では18世紀後半からナデシコ栽培が流行していたが、1841年に継松栄二が作出したと言われている。伊勢では伊勢ハナショウブ、伊勢ギクと共に松坂藩士を中心に古くから愛好されて来た。これらはいずれも花弁が下垂するのが特徴であり、特に伊勢ナデシコは京都や江戸でも広く栽培されていた。もう一つは「トコナツ」で、比較的矮性のものが多く、花型は一重咲き、八重咲きを含め色々あり、伊勢ナデシコと区別のつかないような花弁の長いものもあった。明治時代に入り1895年に大流行があり、更に1909年頃に再び流行を見た。以後番付表や専門書が出版されたが、太平洋戦争時に壊滅的な打撃を受け、現在ではほとんど当時の品種は残っていない。ただし一部の品種が、いわゆる「三寸セキチク」など、こんにちの営利用品種の元となった。ナデシコ フレッシュアイペディアより)

  • 柳亭左龍 (初代)

    柳亭左龍 (初代)から見た番付番付

    1875年の『諸芸人名録』には「落語之部」の「上等之部」に位置している。番付も明治の中期頃まで高位置を常にキープしていた。柳亭左龍 (初代) フレッシュアイペディアより)

  • こんぱち

    こんぱちから見た番付番付

    大相撲の世界では初めて髷を結えるようになった力士は親方や先に髷を結った兄弟子に挨拶回りをする習慣がある。この時迎える親方や兄弟子は記念としてコンパチを行なうとともに油銭(ゆせん、これから髷を結うために必要な鬢付け油の代金という意味)を渡す。なお、コンパチの回数や油銭の金額は兄弟子の地位によって異なり番付が高いほど多い。こんぱち フレッシュアイペディアより)

  • 錦木塚右エ門 (2代)

    錦木塚右エ門 (2代)から見た番付番付

    最初は南部相撲で相撲人生をスタートさせた。1845年3月に初土俵(二段目〈現在の幕下〉)を踏んだ。1852年11月西二段目8枚目にあがり、現在でいう十枚目昇進を果たす。この場所、6勝3敗1預の優勝次点という好成績を挙げた。1856年11月場所で新入幕を果たした。幕内では目立った成績を残せず、勝ち越しも一度きり(西前頭4枚目だった1859年11月場所)と芳しくなかった。それでも、番付は順調に上昇して行った。しかし万延年間に入ると病気がちになり、1860年10月場所(この場所で記録した西前頭筆頭が、彼の最高位である)以降は休場続きだった。そして、1861年11月26日に本場所の土俵に復帰する事が叶わないまま、39歳の若さで死去した。錦木塚右エ門 (2代) フレッシュアイペディアより)

  • 鳥井崎与助

    鳥井崎与助から見た番付番付

    同郷の伊勢ノ海利助(後の柏戸利助。大関。5代伊勢ノ海)の誘いを受け、1812年11月場所で初土俵(東二段目5枚目だったため、十枚目付出扱いだった)を踏んだ。十両時代は5割にやや満たない勝率で推移したが、1817年1月場所では8戦全勝の優勝相当成績を残した。初土俵・新十両から12年後の1824年10月場所で漸く新入幕を果たした。その場所2勝3敗4休1預の成績を挙げたが、この2勝が生涯で挙げた幕内での勝ち星となってしまった。翌1825年1月場所で十両に逆戻りし、1827年11月場所で再入幕・1828年3月場所で十両に再出戻り・1829年2月場所で再々入幕と晩年は、幕内と十両の往復に終始した。先述の通り、この間幕内では1勝も挙げることが出来なかった。1830年3月場所では番付に載ったのみで、その頃に現役死したと考えられている。数え40(満38?39歳)の若さだった。尚、1829年2月場所までは弘前藩の抱えだった。また、師匠の柏戸も鳥井崎の死後、後を追うかのように10月27日(1830年12月3日)に48歳で死去している。鳥井崎与助 フレッシュアイペディアより)

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