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山の井鷲之助から見た番付
鳥取藩の抱えとして、1821年2月場所で初土俵を踏んだ。子供の時から力が強く、地引網の一方を1人で受け持って引いたというエピソードが残っているほど体格が非常に恵まれていたため、西張出前頭2枚目(のち番付の改訂が行われて、小結)に付出された。この場所は2勝3敗2休2分1無の成績だったが、次の1821年10月場所では西関脇に昇進。この場所では5勝4敗1無の成績を挙げ、次の1822年1月場所では7勝3敗の優勝次点の成績を挙げた(優勝相当成績者は有馬山龍右エ門で7勝2敗1無だった)。しかし、これからの活躍が期待された矢先の6月2日に急死した。数え28(満26?27歳)の短い生涯だった。(山の井鷲之助 フレッシュアイペディアより)
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由良ノ海楫五郎から見た番付
幼少の頃から実力があるとみなされ、1816年3月に四海浪 吉五郎(しかいなみ きちごろう)の名前で初土俵を踏んだ際には、いきなり西前頭6枚目に附出された(幕内付出。江戸時代に横行した。幕下付出の項を参照)。しかし厳しいプロである大相撲の世界は甘くなく、1818年2月場所千秋楽の荒戸川戦で白星を挙げるまで丸2年勝てない日が続いた。この間、同場所で記録した八十嶋冨五郎の26連敗を塗り替える27連敗の最多連敗記録を樹立した。当然の如く番付は急降下し、この場所後二段目10枚目以下(現在で言うと幕下陥落)になってしまった。1821年2月場所で、西二段目10枚目(現在で言うと再十両)に昇格するも1勝3敗と負け越し、再度跳ね返された。(由良ノ海楫五郎 フレッシュアイペディアより)
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小柳常吉 (明治)から見た番付
1858年1月場所で初土俵(二段目〈現在の幕下〉)を踏んだ。1861年10月場所5日目に千草山と改名し、徳島藩のお抱え力士となった。1866年3月場所で東十両9枚目(十枚目格)に昇進。その場所で、いきなり7勝1敗の優勝次点の好成績を挙げた(優勝相当成績は同じ徳島藩お抱えの千羽ヶ嶽兵右エ門〈8勝1分け〉)。十両時代は快進撃を続け、十両昇進から4場所後の1868年6月場所で新入幕を果たした。その直前の1867年11月場所は、千羽ヶ嶽が7日目の國見山半五郎戦で引き起こした勝負結果を巡るトラブルにより、お抱え元の徳島藩第13代藩主・蜂須賀斉裕によって、千羽ヶ嶽や鬼面山谷五郎(後の第13代横綱)と共にこの場所を強制にボイコットさせられる羽目に追いやられた。この場所では東十両筆頭で1勝2敗7休という成績に終わっていたが、事情が勘案されめでたく入幕を果たすことができた。幕内でも実力を遺憾なく発揮し、たびたび優勝争いに加わっていた。1871年4月場所で西小結に昇進。同年には小柳の好成績に惚れ込んだ山内容堂によって、お抱え元を土佐山内家に変更されようとしたが、断ったという逸話もある(後に相生松五郎が承諾し、綾瀬川山左エ門の四股名を容堂から貰って、大関まで昇進した)。1873年4月場所で西関脇に昇進したが、その場所後に高砂浦五郎の高砂改正組に同調して東京相撲を離脱したため、次の12月場所では番付から小柳の名前が墨で消されるというペナルティーを受けたこともあった(幕内の番付に空位ができたのは、それから2007年11月場所で時津風部屋力士暴行死事件の影響を受けて急遽現役を引退して、16代時津風を襲名した時津海正博(当時西前頭11枚目)まで134年間出なかった)。高砂改正組は1878年まで存続したが、小柳自身は間もなく袂を分かち、翌1874年12月場所で西小結張出で東京相撲に復帰した。しかし、復帰後は以前と打って変わって低迷(小柳常吉 (明治) フレッシュアイペディアより)