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  • 式守伊之助 (5代)

    式守伊之助 (5代)から見た番付番付

    3代伊之助の弟子で、初代式守勘太夫を名乗った。文政6年(1823年)2月に初めて番付に載った。天保6年(1835年)1月に次席に繰り上がった。天保10年(1839年)3月に5代伊之助を襲名した。伊之助在位は12年。23場所で嘉永3年(1850年)に現役のまま没した。年寄伊勢ヶ濱を兼任していた。式守伊之助 (5代) フレッシュアイペディアより)

  • 根岸 (相撲)

    根岸 (相撲)から見た番付番付

    番付版元であった「三河屋治右衛門」に対して相撲会所から認められた年寄名跡で根岸家が世襲し代々「治右衛門」が通り名として使われた。根岸 (相撲) フレッシュアイペディアより)

  • 舞風昌宏

    舞風昌宏から見た番付番付

    小学5年から相撲を始め、中学時代には相撲部に所属した。3年の夏に尾車部屋を見学に行き入門を決意し、卒業と同時に尾車部屋に入門。(親方は両親が教師なので中卒で入門させるとは半信半疑であったという、また入門のきっかけは尾車親方が馴染み深い十和田市の喫茶店で出会った事からである)1992年3月場所に初土俵を踏んだ。三段目までは順調に番付をあげて行ったが、首の故障、足首の骨折、半月板の損傷など故障が多く、長く三段目、幕下下位で低迷していた。2004年には幕下上位に定着し十両の狙える地位まで番付を上げ、2004年11月場所には東幕下5枚目で6勝1敗と勝ち越し、翌2005年1月場所に初土俵から77場所目で史上11位のスロー記録で十両に昇進した。しかし、押し相撲特有の連相撲が多く勝ち越しに王手をかけながらも千秋楽に負け越すといったこともあり、3場所十両を務めたものの、同年5月場所を最後に幕下に陥落した。右膝の故障もあり本来の相撲が取れず、2006年3月場所には三段目まで陥落した。しかし、三段目に陥落した翌5月場所は序盤から絶好調で、7戦全勝で三段目優勝を果たした。また、優勝はこれが初である。mixiブログで2007年春場所限りでの引退を表明し話題を呼んだ。(春場所は廃業後を見据えて脂肪を落としたために全敗であった。)翌5月場所9日目に正式に引退を表明した。舞風昌宏 フレッシュアイペディアより)

  • 星岩涛祐二

    星岩涛祐二から見た番付番付

    小兵だったが着実に番付を上げ、入門2年目には後の師匠となる星甲が一時期名乗ってた四股名の星兜の名をもらい早くから将来を嘱望された。その後、1972年3月に井筒親方が亡くなり、元前頭4・星甲の陸奥親方が井筒部屋を継承。だが、井筒は1974年7月に陸奥を再襲名し、それに伴って所属部屋の名称も陸奥部屋に変わった(これにより空き名跡となった井筒は、高砂一門の元横綱・北の富士が取得。彼は、それから間もなく、九重部屋から独立して新・井筒部屋を創設した)。幕下に昇進後は体重がなかなか増えずに苦労し、上位に番付を上げるまで時間が掛かった。星岩涛祐二 フレッシュアイペディアより)

  • 凱皇仁

    凱皇仁から見た番付番付

    1973年3月初土俵、順調に出世して20歳で幕下中堅まで番付を上げた1977年、7月場所中に風呂場で倒れ、はずみでガラス戸を突き破った左腕に大怪我を負い、半年近いブランクを強いられた。復帰後は右腕一本で相撲を取るような形になりながら、約4年後の1982年3月十両昇進。当時の十日町市の広報紙によると十両昇進を祝う激励会には500人が集まるなどかなりの期待があった様子であり、後援会長が紙上で「もし52年(1977年)7月の、左腕動脈切断という大怪我がなかったなら、この激励会は大関昇進祝いであったかも知れない」と語っていた。その後も左腕の致命傷を克服できず、以後十両と幕下を往復する。1985年7月自己最高位の東十両7枚目の地位に躍進するも4勝11敗と大敗し、翌場所から幕下に陥落。その後十両復帰は叶わず、1986年7月限りで廃業。その後の様子が2009年にテレビ番組で紹介され、相撲をやめた直後の1986年9月から郷里の新潟県が生んだ英雄・田中角栄元首相の介護をしていたという。その後は実家の旅館の支配人を経て札幌市の福祉施設に勤務した。凱皇仁 フレッシュアイペディアより)

  • 大碇紋太郎

    大碇紋太郎から見た番付番付

    1885年(明治18年)5月の番付で序ノ口に記載される。1893年(明治26年)1月新入幕。その後負け越すことなく、1894年(明治27年)5月に小結で7勝1敗1預、1895年(明治28年)1月に関脇で7勝2敗、大関になった。ところが大関2場所はいずれも勝ち越しているのに降格、怒った大碇は1896年(明治29年)5月場所番付に張出関脇としてその名を残しながら脱走して京都相撲に加入、大関として迎え入れられる。1898年(明治31年)1月には雷親方の世話により前頭筆頭格番付外で帰参するが大負けして再度脱走した。大碇紋太郎 フレッシュアイペディアより)

  • 千葉ヶ崎俊治

    千葉ヶ崎俊治から見た番付番付

    大柄ではないもののあんこ型の体型で、突っ張りから鋭い出足を生かして左四つから豪快な吊り・上手投げを繰り出す正攻法の取り口で番付を上げていき、1918年1月場所で小結に昇進、この場所を8勝2敗の好成績を挙げた。この活躍が認められ、同年5月場所では九州山十郎と同時に大関へ昇進した。同時期に太刀山峯右衛門の現役引退と鳳谷五郎の横綱昇進によって大関の地位が空いた幸運はあったが、新入幕から僅か4場所でのスピード出世だった。千葉ヶ崎俊治 フレッシュアイペディアより)

  • 小野錦仁之助

    小野錦仁之助から見た番付番付

    大坂相撲の小野川部屋に入門したが、すぐに東西合併となり、大阪では番付にはつかなかった。1927年1月の合併最初の場所に序ノ口で番付につく。1932年5月場所に十両、1933年5月場所に入幕を果たす。幕内には定着できず、すぐに十両に安住するかのように、十両在位が長かった。最高位は新入幕の場所の西前頭11枚目である。1935年1月、再入幕(結果的に最後の幕内在位場所となった)から、師匠のしこ名の加古川を継ぐ。その後1942年1月場所限りで引退するまで、7年間にわたって十両にいた(途中1場所だけ幕下に陥落した)。この間、小野川部屋の複雑な経緯(小野川部屋の項目参照)のために、所属部屋は、小野川?陣幕?小野川?陣幕と変った。小野錦仁之助 フレッシュアイペディアより)

  • 八方山主計

    八方山主計から見た番付番付

    入幕後しばらくは幕内下位に低迷したが、戦後に入って幕内中位に番付を上げ、時には上位にも顔を出したが、その都度大負けして上位定着はならず、三役昇進、三賞、金星のいずれも果たせなかった。現役中の1951年には元横綱・前田山の高砂、大ノ海、藤田山とともにアメリカを巡業、そのため同年9月場所を全休している。八方山主計 フレッシュアイペディアより)

  • 丹下日出夫

    丹下日出夫から見た番付番付

    元ホースニュース・馬の編集者。井崎脩五郎の後輩で師弟関係にあたる。同紙では中央競馬の関東版の本紙予想を担当していた。また、2008年3月30日まで、日曜日の『中央競馬ワイド中継』(独立UHF放送局)に出演し、「丹下日出夫の今日の丹券」コーナーでメインレースの予想と共にクラシック有力馬の番付を発表していた。2008年9月からは毎日新聞社に所属し、同紙にて中央競馬の本紙予想を担当。丹下日出夫 フレッシュアイペディアより)

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