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  • 大潮清治郎

    大潮清治郎から見た番付番付

    陸奥部屋に入門、1919年1月場所に初土俵をふむ。入門も遅かったこともあって、昇進もゆっくりで、新十両が1928年3月、新入幕は1932年1月場所で、すでに30歳を超えていた。その新入幕の場所に春秋園事件が起こり、多くの力士が脱退したが、彼は残留し、その結果いきなり東前頭2枚目と幕内上位に進出することになった(事件前の番付は東前頭12枚目だった)。そこでもよく健闘し、5月には小結に昇進した。その後、関脇に達し、右四つから寄る正攻法の相撲で長く上位で活躍した。典型的な大器晩成で息の長い活躍を見せ、1940年1月場所6日目、横綱男女ノ川を降して金星を挙げた時の年齢は39歳5ヶ月で、これは現在も金星獲得最年長記録である。1941年5月場所限りで現役を退いたが、その時は40歳を過ぎていた。人柄良く風格を湛えた土俵態度で力士からの人望も集めた。大潮清治郎 フレッシュアイペディアより)

  • 大邱山高祥

    大邱山高祥から見た番付番付

    1934年(昭和9年)1月場所では豪快な首投げでその場所に優勝を果した男女ノ川(当時関脇、後に横綱)に土をつけ8勝3敗の成績で翌5月場所に小結昇進、1937年(昭和12年)5月場所で関脇に昇進して勝ち越した時には大関も狙えるという声もあったが、前田山らに先を越され果たせなかった。また、先代山科親方(柏山吾郎)の娘婿となり、1937年(昭和12年)1月からは年寄・山科で二枚鑑札を務めた。1941年(昭和16年)5月場所後に兵役に服し、1944年(昭和19年)1月場所には帰還して番付にはのらなかったが、幕内格で土俵をつとめ、大きく負け越してその場所限りで現役を引退して年寄専務となった。しかし戦後まもなく妻と離婚したため山科から間垣に名跡を変更し、1950年(昭和25年)1月限りで廃業した。廃業後は事業家となり、父同様に商業を営んだ。大邱山高祥 フレッシュアイペディアより)

  • 多情剣客無情剣

    多情剣客無情剣から見た番付番付

    江湖の生き字引、百曉生が作成した武器の番付。ただし、作成から数年たっているため、最新のデータでないこと、直接戦わせて作った番付でなく、下位の者が上位者に必ずしも勝てないというわけではない。また、百曉生が女性蔑視だったためか、女性の名前が1つも入っていないことが指摘されている。それでも、知名度はかなり高く、作中ではすくなくとも46位までは番付がなされているようで、この程度の順位でも十分に達人として扱われる。多情剣客無情剣 フレッシュアイペディアより)

  • 相撲 (雑誌)

    相撲 (雑誌)から見た番付番付

    前身は1949年発刊の「ベースボール・マガジン編集・相撲号」。その後も「相撲号」(題字は「相撲號」)として「ベースボール・マガジン特集」または「ベースボール・マガジン別冊」の表示を入れた上で発行。1952年から同題。月刊誌で年12回発行され、奇数月号は「○場所展望号」、偶数月号は「○場所総決算号」と呼ばれる(○には初、春、夏、名古屋、秋、九州の各場所名が入る)。展望号は大相撲の番付発表の3日後、決算号は場所後最初の木曜日(番付編成会議の翌日)に発売となる(おおよそ20?25日頃)。相撲 (雑誌) フレッシュアイペディアより)

  • 朝嵐大三郎

    朝嵐大三郎から見た番付番付

    1959年9月場所 朝響の四股名で番付につく。朝嵐大三郎 フレッシュアイペディアより)

  • 義ノ花成典

    義ノ花成典から見た番付番付

    故障もあり三段目でやや苦しんだが、着実に番付を上げて行き、1963年7月場所では初土俵から僅か4年ほどで十両に昇進。そして、1964年11月場所で新入幕を果たした。しかし、新入幕の場所で左膝を痛めた事もあり暫くは幕内下位に低迷し、一時は十両へ落ちていた。だが、1966年3月場所にて再入幕を果たすと勝ち越しを続け、同年11月場所では最高位となる東前頭筆頭まで番付を上げた。この場所では、6日目に栃ノ海から金星(なお栃ノ海は、この翌日に引退を発表)を獲得するなど健闘したが、6勝9敗と負け越してしまった。義ノ花成典 フレッシュアイペディアより)

  • 一の谷崇帥

    一の谷崇帥から見た番付番付

    中学時代は野球部に所属していたため、相撲経験は無かった。しかし相撲が盛んな地域であったため、父の勧めにより中学卒業と同時に中村部屋に入門。1992年3月場所に初土俵を踏んだ。初土俵から4年で幕下まで番付を上げたが、定着するまでに時間が掛ったため幕下と三段目を往復する生活が続いた。2000年頃から幕下に定着。幕下中位で一進一退が続いた時期も長かったが、2003年後半から幕下上位でも勝ち越せるようになった。2004年1月場所には最高位の東幕下4枚目まで番付を上げ4勝3敗と勝ち越し、翌3月場所に十両に昇進。軽量の体格を生かした速攻相撲が得意で諸差しになると力を発揮したが、やや立合い負けするところがあり、5勝10敗と負け越し幕下に陥落した。同年7月場所にも十両に復帰したがまた1場所で陥落している。それ以来、十両から遠ざかり、幕下の土俵で十両復帰を目指して相撲を取り続けていたが、2006年7月場所を途中休場し、翌場所から3場所連続全休。2007年3月場所では西序二段28枚目まで番付を落とし、その後三段目上位まで番付を戻したものの、ひざの故障のため、2008年1月場所後の2月8日に引退届を提出、3月場所後に引退が発表された。一の谷崇帥 フレッシュアイペディアより)

  • 琴若央雄

    琴若央雄から見た番付番付

    1980年以降は肘や膝の故障もあって低迷し、最後は幕下中位まで番付を下げて1985年9月場所後、31歳で廃業した。琴若央雄 フレッシュアイペディアより)

  • 淺瀬川健次

    淺瀬川健次から見た番付番付

    その後左目に虫が寄生するという奇病(左眼慢性化膿症)に罹り幕下にまで下がったものの1968年1月場所では7戦全勝で幕下優勝を飾り、同年7月場所で約1年ぶりに幕内に返り咲き鮮やかなカムバックを見せた。直後は十両との往復が続いたが、1969年9月場所では再び幕内上位(西前頭2枚目)まで番付を戻し、大関北の富士を破っている。同年7月場所では新大関清國の初優勝パレードで旗手を務めた。淺瀬川健次 フレッシュアイペディアより)

  • 時津洋宏典

    時津洋宏典から見た番付番付

    中学校卒業と同時に時津風部屋に入門し、1985年3月場所に初土俵を踏んだ。同部屋の同期に蒼樹山(現・枝川親方)がいる。以降、着実に番付を上げて行き、1990年9月場所には21歳の若さで十両に昇進した。十両で地力を付け、1992年5月場所に新入幕を果たした。190cm近い長身の巨体を生かした四つ相撲で期待され、1993年7月場所には自己最高位の東前頭4枚目まで番付を上げた。時津洋宏典 フレッシュアイペディアより)

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