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    番付から見た木村庄之助 (26代)

    1972年5月場所、前場所直前に25代木村庄之助が廃業、協会は11月場所まで庄之助を空位にすると発表したため立行司が22代式守伊之助1人となった。1960年1月場所以降立行司(2人)と三役格行司(3人)は二段に分けて書かれていたが、バランスをとるため伊之助の横に三役格3人を並べて書いた。その後庄之助と伊之助が揃っても5人並べて書かれていたが、1985年1月場所から再び立行司と三役格行司は二段に分けて書かれるようになった。番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た境川浪右エ門

    1957年(昭和32年)以前に部屋単位、またはいくつかの部屋の合同など、小集団の巡業を行うときは「巡業番付」が作られる1(1879年(明治12年)?1881年(明治14年)頃の巡業番付、14代横綱境川浪右エ門の名がある。横綱、大関など上位力士がいない場合は、その中の一番上位の力士を大関に据えるようにした。1939年(昭和14年)5月に角界一の大部屋、出羽海一門で巡業が行われ、その時作られた巡業番付には鏡岩のほかに、1月場所で優勝した出羽湊が大関に据えられている。現在では協会全体で巡業が行われるため巡業番付は作られない。番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た千代の富士貢

    また、1976年(昭和51年)10月に朝日山部屋の相続をめぐっての騒動でトンガ王国出身の幕下以下の力士が廃業に追い込まれた際にも、11月場所の番付では幕下以下のそれぞれの場所が空位とされた。1981年(昭和56年)9月場所番付において、東西の正横綱(北の湖、千代の富士)が「横綱大関」として番付上大関を兼務、純粋な大関不在の変則番付になったことがある(後述。横綱大関の項目も参照)。番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た若ノ鵬寿則

    また、2008年(平成20年)9月場所の番付では、前の7月場所後の番付編成で東前頭8枚目に据えられた若ノ鵬が8月21日付で解雇されたため同地位が空位となった。高砂除名組のときは該当者が墨で塗りつぶされたが、時津海、若ノ鵬の際には空白となった。なお同年9月8日付で解雇された露鵬・白露山の2力士は番付発表後の解雇だったこともあり9月場所の番付には名前が残っている(ただし同年9月14日付の番付では空白となっている)。2009年(平成21年)3月場所の番付では若麒麟が2月2日付で解雇されたため、西十両筆頭が空位となった。番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た陣幕久五郎

    東京相撲で「横綱」の文字が初めて番付上に記載された時期は1890年(明治23年)5月場所であるが、大坂相撲ではそれ以前の1868年(明治元年)7月場所のことで、陣幕久五郎(12代横綱)が東方欄外に「薩州 陣幕久五郎 横綱土俵入仕候」と記載された。本場所で「横綱」の文字を表した時期は大坂でこの頃が初めてである。これ以降、大坂相撲では「横綱土俵入仕候」の文字が番付上に記載されるようになり、不知火諾右衛門(光右衛門改め、11代横綱、1870年(明治3年)3月?1872年(明治5年)7月)、八陣信藏(1872年(明治5年)7月?1874年(明治7年)6月)、高越山谷五郎(1873年(明治6年)7月?1874年(明治7年)6月)の3例が挙げられる。「横綱土俵入仕候」の文字は江戸相撲の巡業番付には見られ、阿武松緑之助(6代横綱)、秀ノ山雷五郎(9代横綱)のものが確認されている。番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た達ノ矢鶴吉

    1888年5月場所、京都相撲より東京相撲に編入した一ノ矢鶴吉は、当時関脇に一ノ矢藤太郎(のち大関)がいたため「達ノ矢」と改名した。番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た両國勇治郎

    1918年1月場所で、史上初めて横綱・大関・関脇・小結・前頭に張出(横綱?2代西ノ海、鳳、大関?伊勢ノ濱、関脇?両國、小結?黒瀬川、前頭?鶴渡)が設けられた番付が発行された。番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た上州山一

    大坂相撲において1923年(大正12年)5月場所前、「龍神事件」と呼ばれる大紛擾が起こり、幕下以下の力士らにて興行。紛争は大もめとなり、上州山と大木戸の両大関をはじめ多数の廃業力士が出た(幕内だけで20人の廃業、のち3人が復帰)。よって同年6月場所の番付は横綱宮城山をはじめ残留力士(幕内は横綱以下、関脇、小結が各1人、平幕13人の計16人)によって番付が改訂され幕内のみ片番付で興行した。番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た西ノ海嘉治郎 (2代)

    1915年1月場所の番付は、西方に正横綱の太刀山、張出横綱の2代梅ヶ谷を据え、東方には横綱がいないという、変則番付となった。同様の番付は翌1916年1月場所の太刀山(西方正横綱)、鳳(同張出横綱)、1921年(大正10年)1月場所の大錦(西方正横綱)、栃木山(同張出横綱)など(逆に東方のみに横綱を据えた番付もある)がある。大錦、栃木山の場合は同じ出羽ノ海部屋の力士であり、さらに当時は東西制のため2人を東西に分けることは出来ない。違う変則番付として1918年(大正7年)5月場所の番付で、四横綱(大錦、鳳、栃木山、2代西ノ海)のうち張出横綱2人(栃木山、2代西ノ海)が同じ東方に張り出された(相撲番付の歴史上、横綱2人が同じ方屋に張り出されたのはこの場所のみ)。また四大関(九州山、千葉ヶ嵜、伊勢ノ濱、2代朝潮)のうち張出大関2人(伊勢ノ濱、2代朝潮)は同じ西方に張り出されている番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た雷電爲右エ門

    1790年(寛政2年)11月場所で、西関脇に付け出された雷電爲右エ門が江戸本場所に初登場したが、東前頭3枚目に雷電灘之助がいたため、東西に“雷電”が相対する珍番付となった。番付 フレッシュアイペディアより)

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