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番付から見た西ノ海嘉治郎 (初代)
東が西よりも格上とみなされるようになったきっかけは、1890年(明治23年)に横綱免許をうけた大関初代西ノ海(16代横綱)が、張出大関になることに不満をもらしたため、これをなだめるために同年5月場所で番付にはじめて「横綱」の文字をいれ、東に張出の形式で配置したころからのことである。1909年(明治42年)6月場所の東西制実施のときに、優勝した方屋を翌場所東に配置したことで、東が半枚上ということが確定して、現在に至っている。ただし春秋園事件に際して発行された改定番付(1932年(昭和7年)2月場所)では大関3人(東方に玉錦と能代潟、西方に武藏山)で張出をつくらなかったために、幕内では「関脇以下は西が上位」とされていたため東方上位が完全に確定した時期はこれ以降である。(番付 フレッシュアイペディアより)
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番付から見た若乃花幹士 (初代)
1961年11月場所、大関・関脇・小結は張出がある番付で、横綱(初代若乃花、大鵬、柏戸、3代朝潮の4人)のみ、張出を設けず4人を正横綱とし枠内に記載された番付となった。途中朝潮の引退もあったが、この様式の番付は翌年3月場所まで続いた。(番付 フレッシュアイペディアより)
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番付から見た阿武松緑之助
東京相撲で「横綱」の文字が初めて番付上に記載された時期は1890年(明治23年)5月場所であるが、大坂相撲ではそれ以前の1868年(明治元年)7月場所のことで、陣幕久五郎(12代横綱)が東方欄外に「薩州 陣幕久五郎 横綱土俵入仕候」と記載された。本場所で「横綱」の文字を表した時期は大坂でこの頃が初めてである。これ以降、大坂相撲では「横綱土俵入仕候」の文字が番付上に記載されるようになり、不知火諾右衛門(光右衛門改め、11代横綱、1870年(明治3年)3月?1872年(明治5年)7月)、八陣信藏(1872年(明治5年)7月?1874年(明治7年)6月)、高越山谷五郎(1873年(明治6年)7月?1874年(明治7年)6月)の3例が挙げられる。「横綱土俵入仕候」の文字は江戸相撲の巡業番付には見られ、阿武松緑之助(6代横綱)、秀ノ山雷五郎(9代横綱)のものが確認されている。(番付 フレッシュアイペディアより)