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    番付から見た稲妻雷五郎

    近年、珍しい巡業番付が発見された。弘化・嘉永年間(1845?1854年)で、江戸相撲を引退した稲妻雷五郎(7代横綱)がお抱えの関係で雲州に留まり、その際に興行されたときの巡業番付である。驚くことに東方の欄外に、稲妻の地位の部分に「横綱」の文字が刷り込まれている。また「大関」はなく、代わりに「中関」となっていて、メンバー的には大相撲ならぬ「小相撲」の感が強い。番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た安藝ノ海節男

    1939年5月場所の番付編成において、1月場所4日目の前頭3枚目安藝ノ海戦で、連勝記録が「69」で止まった横綱双葉山は9勝4敗と振るわなかったが、11勝2敗と双葉山より成績の良かった横綱男女ノ川を差し置いて、連勝記録の実績を評価され東正横綱に据えられた。番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た朝潮太郎 (4代)

    1983年(昭和58年)5月場所の番付編成において、大関にも公傷制度を適用することとなった。同年9月場所8日目に朝潮が横綱隆の里戦で膝を痛めて休場し、大関公傷適用第1号となった。番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た大徹忠晃

    2014年(平成26年)1月27日、内閣府が相撲協会を1月28日付で公益財団法人として認定したのに伴い、同年3月場所の番付より「日本相撲協会」の右上に「公益財団法人」と記載されるようになった。また公益法人となったため、役員の規定が変更され評議員として、当時の評議員のうち年寄でもあった南忠晃(湊川)、平野兼司(山響)、佐藤忠博(大嶽)の3名が、番付の左側(西方)最下段の序ノ口の左隣に「評議員」と書かれ本名で記載された。また、これまでの「日本相撲協會」の「會」(旧字体)が「会」に改められた。番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た嵐山捨吉

    1863年7月場所、新関脇に昇進した陣幕は番付上では張出関脇となり、関脇の張出はこれが最初となった。ちなみに張出横綱(一人横綱の張出は除く)は1904年(明治37年)1月場所の大砲、張出大関は1890年5月場所の剣山、張出小結は1888年5月場所の嵐山、張出前頭は1793年(寛政5年)3月場所の関ノ戸がそれぞれ張出の最初である。番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た太刀山峯右エ門

    1915年1月場所の番付は、西方に正横綱の太刀山、張出横綱の2代梅ヶ谷を据え、東方には横綱がいないという、変則番付となった。同様の番付は翌1916年1月場所の太刀山(西方正横綱)、鳳(同張出横綱)、1921年(大正10年)1月場所の大錦(西方正横綱)、栃木山(同張出横綱)など(逆に東方のみに横綱を据えた番付もある)がある。大錦、栃木山の場合は同じ出羽ノ海部屋の力士であり、さらに当時は東西制のため2人を東西に分けることは出来ない。違う変則番付として1918年(大正7年)5月場所の番付で、四横綱(大錦、鳳、栃木山、2代西ノ海)のうち張出横綱2人(栃木山、2代西ノ海)が同じ東方に張り出された(相撲番付の歴史上、横綱2人が同じ方屋に張り出されたのはこの場所のみ)。また四大関(九州山、千葉ヶ嵜、伊勢ノ濱、2代朝潮)のうち張出大関2人(伊勢ノ濱、2代朝潮)は同じ西方に張り出されている番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た北の富士勝昭

    ただし、1971年(昭和46年)10月に急死した横綱玉の海の場合は、本来ならば翌11月場所の番付は西横綱に掲載される予定であったが、結果11月場所の新番付では玉の海の四股名ごと外されることとなり、又西横綱の番付も空位としなかった。これにより、北の富士ただ一人が東横綱の地位で番付に掲載され、この1971年11月場所から北の富士が名実共に、史上4例目の一人横綱として扱われることとなった。結果的に形式上は不自然な番付にはならず、このケースは一般的には空位の事例として考えられていない。番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た伊勢ノ濱慶太郎

    1915年1月場所の番付は、西方に正横綱の太刀山、張出横綱の2代梅ヶ谷を据え、東方には横綱がいないという、変則番付となった。同様の番付は翌1916年1月場所の太刀山(西方正横綱)、鳳(同張出横綱)、1921年(大正10年)1月場所の大錦(西方正横綱)、栃木山(同張出横綱)など(逆に東方のみに横綱を据えた番付もある)がある。大錦、栃木山の場合は同じ出羽ノ海部屋の力士であり、さらに当時は東西制のため2人を東西に分けることは出来ない。違う変則番付として1918年(大正7年)5月場所の番付で、四横綱(大錦、鳳、栃木山、2代西ノ海)のうち張出横綱2人(栃木山、2代西ノ海)が同じ東方に張り出された(相撲番付の歴史上、横綱2人が同じ方屋に張り出されたのはこの場所のみ)。また四大関(九州山、千葉ヶ嵜、伊勢ノ濱、2代朝潮)のうち張出大関2人(伊勢ノ濱、2代朝潮)は同じ西方に張り出されている番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た武藏山武

    東が西よりも格上とみなされるようになったきっかけは、1890年(明治23年)に横綱免許をうけた大関初代西ノ海(16代横綱)が、張出大関になることに不満をもらしたため、これをなだめるために同年5月場所で番付にはじめて「横綱」の文字をいれ、東に張出の形式で配置したころからのことである。1909年(明治42年)6月場所の東西制実施のときに、優勝した方屋を翌場所東に配置したことで、東が半枚上ということが確定して、現在に至っている。ただし春秋園事件に際して発行された改定番付(1932年(昭和7年)2月場所)では大関3人(東方に玉錦と能代潟、西方に武藏山)で張出をつくらなかったために、幕内では「関脇以下は西が上位」とされていたため東方上位が完全に確定した時期はこれ以降である。番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た鶴ヶ嶺昭男

    1956年(昭和31年)3月場所の番付は1918年1月場所以来38年ぶりに、横綱・大関・関脇・小結・前頭に張出(横綱?栃錦、千代の山、大関?松登、関脇?羽嶋山、小結?鶴ヶ嶺、前頭?星甲)がある番付となった。翌5月場所も同様(横綱?鏡里、千代の山、大関?松登、関脇?出羽錦、小結?羽嶋山、前頭?二瀬山)に各地位に張出がある番付となった。番付 フレッシュアイペディアより)

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