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    番付から見た城ノ龍康充

    2011年6月27日、同年1月場所以来の本場所開催となる7月場所の新番付が発表となったが、幕内には5人、十両には戦後最多の13人の昇進となった。このうち5月技量審査場所、幕内で負け越した高見盛(前頭15枚目、現振分)と木村山(同17枚目)はともに7勝8敗の負け越しながら、それぞれ14枚目、15枚目と番付を上げた。同様の前例(幕内)としては1967年7月場所の清國、陸奥嵐、大雄以来44年ぶり。栃乃洋(同14枚目、現竹縄)も6勝9敗の成績ながら番付が下がらず同じ地位だった。新入幕では?安が「平成生まれ」初の幕内力士となった。また異例ずくめの番付となった十両では、黒海、佐田の海、佐田の富士、城ノ龍、益荒海の5人は、いずれも5勝10敗の成績ながら番付を上げている。幕内から十両及び十両から幕下への陥落者が無かったのは、毎場所番付が発行されるようになった1933年1月場所以来初めて。番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た露鵬幸生

    また、2008年(平成20年)9月場所の番付では、前の7月場所後の番付編成で東前頭8枚目に据えられた若ノ鵬が8月21日付で解雇されたため同地位が空位となった。高砂除名組のときは該当者が墨で塗りつぶされたが、時津海、若ノ鵬の際には空白となった。なお同年9月8日付で解雇された露鵬・白露山の2力士は番付発表後の解雇だったこともあり9月場所の番付には名前が残っている(ただし同年9月14日付の番付では空白となっている)。2009年(平成21年)3月場所の番付では若麒麟が2月2日付で解雇されたため、西十両筆頭が空位となった。番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た蒼樹山秀樹

    1985年3月場所初土俵の蒼樹山(現枝川)は、番付に「寺木」の名が初めて載った翌5月場所で7戦全敗。その次の7月場所も初日から3連敗のあと初白星をあげたものの、初土俵から10連敗を記録した。それから18年後の2003年(平成15年)11月場所、十両西8枚目を最後に引退したが、この場所初日から9連敗、10日目不戦敗で同じ10連敗で土俵を去った。番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た益荒雄広生

    2010年7月場所の番付は、一連の野球賭博問題で1週間遅れの7月5日発表(番付には「平成22年6月28日発表」と書かれてある)。新番付に掲載されたまま解雇となった大関琴光喜以下、謹慎となった幕内力士7人、十両・幕下力士7人が休場。大嶽(元関脇貴闘力)親方は解雇、時津風(元前頭時津海)・阿武松(元関脇益荒雄)両親方は降格の懲戒処分、武蔵川理事長(元横綱三重ノ海)以下11人の親方は当面の間謹慎という異常事態の場所となった。この際「謹慎処分を受けた力士の名前が番付に残ったままになる異例の事態」などとという誤った報道が全ての民放キー局でなされた。これらの報道について訂正等は一切なかった。番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た栃東大裕

    番付には力士名の他、年寄(現在は「理事」、「監事」(2008年(平成20年)11月場所より表記を「副理事」に改称)、「役員待遇」、「委員(審判委員を含む)」(年寄のうち期間限定の一代年寄であった栃東(元大関、現玉ノ井)は委員待遇)、「主任」、「年寄」、「準年寄」に分けられる。以前は「取締」、「参与」という職階もあった。審判委員(1968年(昭和43年)の機構改革前には「勝負検査役」と番付に書かれていた)、行司、呼出、若者頭、世話人の名も記される。番付上では、横書きで書かれる文字はすべて歴史的観点から右から書かれている(例:「司行」、「事理」)。番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た凸版印刷

    享保年間より番付は木版刷だったが、1917年(大正6年)からは幕内のみ木版刷として、十両以下を凸版印刷に変更。間もなくすべて凸版印刷に移行し、1948年(昭和23年)からはオフセット印刷に改められた。また幕末から明治にかけて、絵師による絵番付(版画で描かれている)や明治以降には写真番付も製作された。番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た北勝国英明

    2010年11月場所の番付で、手首の古傷の治療のため2009年5月場所より6場所連続全休するなどして2010年9月場所で元関取として昭和以降では元出羽海部屋の龍門以来(番付外に陥落した場所を最後に廃業)となる番付外まで陥落し、元十両力士としては初めて前相撲から取り直し「再出世」を果たした北勝国(当時の最高位は2008年3月場所の十両東12枚目)が序ノ口西27枚目に再び四股名が載り、元関取としては史上初の序ノ口優勝を果たした。番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た玉の海正洋

    ただし、1971年(昭和46年)10月に急死した横綱玉の海の場合は、本来ならば翌11月場所の番付は西横綱に掲載される予定であったが、結果11月場所の新番付では玉の海の四股名ごと外されることとなり、又西横綱の番付も空位としなかった。これにより、北の富士ただ一人が東横綱の地位で番付に掲載され、この1971年11月場所から北の富士が名実共に、史上4例目の一人横綱として扱われることとなった。結果的に形式上は不自然な番付にはならず、このケースは一般的には空位の事例として考えられていない。番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た双葉山定次

    1936年(昭和11年)5月場所、双葉山は新関脇の場所で11戦全勝で優勝し、新大関昇進を決めた。新関脇の番付を1場所で新大関に昇進した例は、1918年5月場所の九州山(東西制による)、1939年(昭和14年)5月場所の羽黒山(11勝4敗)、1940年(昭和15年)5月場所の五ツ嶌(13勝2敗)がいる。このうち五ツ嶌の13勝は新関脇として最多の勝ち星(15日制以降)で、のち吉葉山(1950年(昭和25年)5月場所)、琴欧州(現琴欧洲、2005年(平成17年)9月場所)がこの記録に並んでいる。番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た佐賀ノ花勝巳

    1947年6月場所の番付で、十両を1場所で新入幕を果たした岩平は本名のまま土俵に上がったが、本名のままの幕内力士第1号だった。翌11月場所「若葉山」と改名した。また、この場所の番付で史上初めて5大関(佐賀ノ花、前田山、名寄岩、東富士、汐ノ海)となった。番付 フレッシュアイペディアより)

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