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番付から見た朝潮太郎 (2代)
1915年1月場所の番付は、西方に正横綱の太刀山、張出横綱の2代梅ヶ谷を据え、東方には横綱がいないという、変則番付となった。同様の番付は翌1916年1月場所の太刀山(西方正横綱)、鳳(同張出横綱)、1921年(大正10年)1月場所の大錦(西方正横綱)、栃木山(同張出横綱)など(逆に東方のみに横綱を据えた番付もある)がある。大錦、栃木山の場合は同じ出羽ノ海部屋の力士であり、さらに当時は東西制のため2人を東西に分けることは出来ない。違う変則番付として1918年(大正7年)5月場所の番付で、四横綱(大錦、鳳、栃木山、2代西ノ海)のうち張出横綱2人(栃木山、2代西ノ海)が同じ東方に張り出された(相撲番付の歴史上、横綱2人が同じ方屋に張り出されたのはこの場所のみ)。また四大関(九州山、千葉ヶ嵜、伊勢ノ濱、2代朝潮)のうち張出大関2人(伊勢ノ濱、2代朝潮)は同じ西方に張り出されている(番付 フレッシュアイペディアより)
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番付から見た尊円法親王
江戸時代中期の元禄年間(1688?1703年)には、歌舞伎、寄席、相撲の看板はいずれも御家流(青蓮院流、尊円流ともいい尊円法親王の書法を伝えたもの)の文字で肉太に記されていた。1757年(宝暦7年)の江戸最初の番付もそれで書かれているが、寛政年間(1789?1800年)には現在の番付の原型にほぼ落ち着いている。以降、幕末から明治にかけて横棒(横画)の運筆が太くなるなど、歌舞伎(勘亭流)や寄席(寄席文字)の番付とは一線を画するようになった。その名を番付の版元根岸家(江戸時代の三河屋)にちなみ「根岸流」と呼ばれ、現在では主に「相撲字」と呼ばれる独特な書体で書かれる。「高」の字をはしご高(髙)で書くことがあったり(現在の番付では「高」と「?」は完全に区別して書かれている)、バランスをとるために〈木へん〉や〈山へん〉をかんむりのように書く(松→枩、峰→峯などのように、同様に「梅」の字も「木」の下に「毎」を書くことがある)ような、本来の正確な四股名とは異なることがあるので注意が必要である。横綱が一番大きく書かれ、以下大関、関脇と地位が下がるにつれ小さく(細く)書かれるようになっていき、序ノ口の力士になるともはや肉眼で見ることが困難なことから、俗に「虫眼鏡」と呼ばれるほどである。現在番付を書いているのは戦後7人目となる三役格行司3代木村容堂で、2007年11月場所から前任の10代式守勘太夫(後の36代木村庄之助)より受け継いでいる。(番付 フレッシュアイペディアより)
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番付から見た木村庄之助 (25代)
1972年5月場所、前場所直前に25代木村庄之助が廃業、協会は11月場所まで庄之助を空位にすると発表したため立行司が22代式守伊之助1人となった。1960年1月場所以降立行司(2人)と三役格行司(3人)は二段に分けて書かれていたが、バランスをとるため伊之助の横に三役格3人を並べて書いた。その後庄之助と伊之助が揃っても5人並べて書かれていたが、1985年1月場所から再び立行司と三役格行司は二段に分けて書かれるようになった。(番付 フレッシュアイペディアより)
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番付から見た千葉ヶ嵜俊治
1915年1月場所の番付は、西方に正横綱の太刀山、張出横綱の2代梅ヶ谷を据え、東方には横綱がいないという、変則番付となった。同様の番付は翌1916年1月場所の太刀山(西方正横綱)、鳳(同張出横綱)、1921年(大正10年)1月場所の大錦(西方正横綱)、栃木山(同張出横綱)など(逆に東方のみに横綱を据えた番付もある)がある。大錦、栃木山の場合は同じ出羽ノ海部屋の力士であり、さらに当時は東西制のため2人を東西に分けることは出来ない。違う変則番付として1918年(大正7年)5月場所の番付で、四横綱(大錦、鳳、栃木山、2代西ノ海)のうち張出横綱2人(栃木山、2代西ノ海)が同じ東方に張り出された(相撲番付の歴史上、横綱2人が同じ方屋に張り出されたのはこの場所のみ)。また四大関(九州山、千葉ヶ嵜、伊勢ノ濱、2代朝潮)のうち張出大関2人(伊勢ノ濱、2代朝潮)は同じ西方に張り出されている(番付 フレッシュアイペディアより)