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    番付から見た西ノ海嘉治郎 (3代)

    1924年(大正13年)5月場所、先(1月)場所優勝した栃木山は西の正横綱であったが、この場所の番付は東の張出横綱となった。東西制だったので東西が入れ替わって、西の正横綱は3代西ノ海、東の正横綱は新横綱の常ノ花で、優勝した栃木山が張出となった。この場所10勝1敗で8回目の優勝、翌1925年(大正14年)1月場所も同地位で10勝1分で9回目の優勝を3連覇で飾ったが、番付上では最後の場所となった翌同年5月場所は西の張出横綱であった。一説には1923年の関東大震災による両国国技館焼失の際、常ノ花後援会から多額の再建資金が寄付されたことに報いるためだったともされる。栃木山をなだめるため、彼の名は東西正横綱の常ノ花、3代西ノ海よりこころもち太く書き出され、「別格横綱」の意味合いが与えられたが、3連覇後の突然の引退表明には、これらの処置への不満があったのではないかとも言われている。番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た飛天龍貴信

    2000年9月場所後、序二段力士持丸は四股名を「挑持丸(ちょうじまる)」と改名する旨届け出たが、番付には「桃持丸」と誤記され(読みはちょうじまる)、それを正式名として一場所を勤めた。翌11月場所終了後に再び改名届けを出し2001年1月場所から改めて「挑持丸」となった。この一場所限りの改名は誤記によるものとはいえ正式に協会の記録として残っている。番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た玉錦三右エ門

    東が西よりも格上とみなされるようになったきっかけは、1890年(明治23年)に横綱免許をうけた大関初代西ノ海(16代横綱)が、張出大関になることに不満をもらしたため、これをなだめるために同年5月場所で番付にはじめて「横綱」の文字をいれ、東に張出の形式で配置したころからのことである。1909年(明治42年)6月場所の東西制実施のときに、優勝した方屋を翌場所東に配置したことで、東が半枚上ということが確定して、現在に至っている。ただし春秋園事件に際して発行された改定番付(1932年(昭和7年)2月場所)では大関3人(東方に玉錦と能代潟、西方に武藏山)で張出をつくらなかったために、幕内では「関脇以下は西が上位」とされていたため東方上位が完全に確定した時期はこれ以降である。番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た黒瀬川浪之助

    1918年1月場所で、史上初めて横綱・大関・関脇・小結・前頭に張出(横綱?2代西ノ海、鳳、大関?伊勢ノ濱、関脇?両國、小結?黒瀬川、前頭?鶴渡)が設けられた番付が発行された。番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た鳳谷五郎 (横綱)

    1915年1月場所の番付は、西方に正横綱の太刀山、張出横綱の2代梅ヶ谷を据え、東方には横綱がいないという、変則番付となった。同様の番付は翌1916年1月場所の太刀山(西方正横綱)、(同張出横綱)、1921年(大正10年)1月場所の大錦(西方正横綱)、栃木山(同張出横綱)など(逆に東方のみに横綱を据えた番付もある)がある。大錦、栃木山の場合は同じ出羽ノ海部屋の力士であり、さらに当時は東西制のため2人を東西に分けることは出来ない。違う変則番付として1918年(大正7年)5月場所の番付で、四横綱(大錦、鳳、栃木山、2代西ノ海)のうち張出横綱2人(栃木山、2代西ノ海)が同じ東方に張り出された(相撲番付の歴史上、横綱2人が同じ方屋に張り出されたのはこの場所のみ)。また四大関(九州山、千葉ヶ嵜、伊勢ノ濱、2代朝潮)のうち張出大関2人(伊勢ノ濱、2代朝潮)は同じ西方に張り出されている番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た木村庄之助 (30代)

    2代木村容堂(1985年1月場所(3代木村林之助時代)?2000年1月場所)番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た大乃国康

    1959年5月場所は、東横綱栃錦と東張出横綱初代若乃花がともに14勝1敗で優勝決定戦となり、若乃花が優勝したが、翌7月場所の番付では優勝同点の栃錦が東横綱にとどまり、若乃花は西横綱だった。「優勝決定戦での勝敗それ自体は番付に影響しない」原則がはじめて明確に示された形であり、その後も同様のケース(1971年1月場所の大鵬-玉の海や1988年3月場所の大乃国-北勝海など)のたびに、優勝力士が同点力士の下位に留めおかれるのは不合理ではないかとの議論を呼んだ。1997年9月場所後の理事会での改定により、現在では同地位の力士同士の決定戦で下位の力士が優勝した場合、翌場所の番付では優勝力士を上位にまわすことになっている。番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た大豪久照

    1960年7月場所後に興行された、秋田県大館巡業において作られた板番付には、東方張出大関の柏戸は枠外に書かれているのに、同じ東方で枠内に書かれている関脇の若三杉(のち大豪)は、普通なら東の正関脇のはずが何故か「関脇」の文字の上部に、小さく「張出し」と書かれている。番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た大砲万右エ門

    1863年7月場所、新関脇に昇進した陣幕は番付上では張出関脇となり、関脇の張出はこれが最初となった。ちなみに張出横綱(一人横綱の張出は除く)は1904年(明治37年)1月場所の大砲、張出大関は1890年5月場所の剣山、張出小結は1888年5月場所の嵐山、張出前頭は1793年(寛政5年)3月場所の関ノ戸がそれぞれ張出の最初である。番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た龍興山一人

    玉の海とは全く逆のケースとして、1990年(平成2年)1月場所で新入幕を果たし、西前頭10枚目で9勝6敗と勝ち越しながら、同年2月に急死した龍興山の場合は、翌3月場所の新番付は自己最高位の東前頭5枚目に載っていた。これは現役力士が場所後死亡しながらも空位にせず、番付に四股名が掲載されるという珍しい出来事である。この理由には、3月場所は龍興山の出身地である地元大阪で大相撲が開催されるため、「四股名だけでも故郷に錦を飾らせたい」という相撲協会の配慮により、異例ながらも番付に龍興山の四股名がそのまま残された。番付 フレッシュアイペディアより)

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