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    番付から見た佐田の山晋松

    また理事長が停年前に理事長職を辞し、停年退職まで「相談役」として番付に掲載(2000年(平成12年)以降では境川尚、時津風勝男、武蔵川晃偉、放駒輝門)されることもある。番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た前の山太郎

    2009年5月場所の番付で新関脇に昇進した豪栄道は、1972年5月場所の前の山以来37年ぶりの大阪府出身の関脇となった。また同場所で幕下優勝を飾り、新十両昇進を決めた?瀬川は、1980年9月場所新十両の若瀬川以来29年ぶりに「川」の付く四股名の関取となった。番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た大錦卯一郎

    1915年1月場所の番付は、西方に正横綱の太刀山、張出横綱の2代梅ヶ谷を据え、東方には横綱がいないという、現在にはない変則番付となった。同様の番付は翌1916年1月場所の太刀山(西方正横綱)、鳳(同張出横綱)、1921年(大正10年)1月場所の大錦(西方正横綱)、栃木山(同張出横綱)など(逆に東方のみに横綱を据えた番付もある)がある。大錦、栃木山の場合は同じ出羽ノ海部屋の力士であり、さらに当時は東西制のため2人を東西に分けることは出来ない。違う変則番付として1918年(大正7年)5月場所の番付で、四横綱(大錦、鳳、栃木山、2代西ノ海)のうち張出横綱2人(栃木山、2代西ノ海)が同じ東方に張り出された(相撲番付の歴史上、横綱2人が同じ方屋に張り出されたのはこの場所のみ)。また四大関(九州山、千葉ヶ嵜、伊勢ノ濱、2代朝潮)のうち張出大関2人(伊勢ノ濱、2代朝潮)は同じ西方に張り出されている番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た花田虎上

    1999年(平成11年)3月場所、横綱曙が全休。横綱3代若乃花が10日目、横綱貴乃花が11日目にそれぞれ途中休場となり、終盤戦は横綱不在の土俵となった。番付に載った横綱が3人揃って休場するのは、1950年(昭和25年)1月場所の羽黒山(5?10日目)、東富士(3?6日目)、照國(4日目?千秋楽)以来49年ぶりだった。その上この場所は、大関千代大海(現佐ノ山)、関脇武双山(現藤島)が途中休場、関脇以上8人のうち5人が休場するという異常事態となった。番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た琴勇輝一巖

    2013年(平成25年)1月場所の番付で序二段の枚数が97枚となったが、序二段の枚数が100枚未満になるのは1979年(昭和54年)3月場所以来34年ぶりとなった。また新入幕前頭15枚目琴勇輝は、1958年11月場所新入幕の前頭19枚目若三杉(のち関脇・大豪)以来55年ぶり香川県出身の幕内力士となった。番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た益荒海幸太

    2011年6月27日、同年1月場所以来の本場所開催となる7月場所の新番付が発表となったが、幕内には5人、十両には戦後最多の13人の昇進となった。このうち5月技量審査場所、幕内で負け越した高見盛(前頭15枚目、現振分)と木村山(同17枚目)はともに7勝8敗の負け越しながら、それぞれ14枚目、15枚目と番付を上げた。同様の前例(幕内)としては1967年7月場所の清國、陸奥嵐、大雄以来44年ぶり。栃乃洋(同14枚目、現竹縄)も6勝9敗の成績ながら番付が下がらず同じ地位だった。新入幕では?安が「平成生まれ」初の幕内力士となった。また異例ずくめの番付となった十両では、黒海、佐田の海、佐田の富士、城ノ龍、益荒海の5人は、いずれも5勝10敗の成績ながら番付を上げている。幕内から十両及び十両から幕下への陥落者が無かったのは、毎場所番付が発行されるようになった1933年1月場所以来初めて。番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た錦洋与三郎

    1933年(昭和8年)1月場所の番付は前年に起きた春秋園事件で発足した、錦洋一派の大日本相撲連盟から脱退し、協会へ帰参した幕内格12名、十両格8名は協会脱退当時(1932年1月)の順位で東西を分けず、地位も記さず別席として四股名を連ねた番付を別に添付した。この場所の番付は従来より小型となった。翌5月場所には元の大きさに戻った。番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た尊円法親王

    江戸時代中期の元禄年間(1688?1703年)には、歌舞伎、寄席、相撲の看板はいずれも御家流(青蓮院流、尊円流ともいい尊円法親王の書法を伝えたもの)の文字で肉太に記されていた。1757年(宝暦7年)の江戸最初の番付もそれで書かれているが、寛政年間(1789?1800年)には現在の番付の原型にほぼ落ち着いている。以降、幕末から明治にかけて横棒(横画)の運筆が太くなるなど、歌舞伎(勘亭流)や寄席(寄席文字)の番付とは一線を画するようになった。その名を番付の版元根岸家(江戸時代の三河屋)にちなみ「根岸流」と呼ばれ、現在では主に「相撲字」と呼ばれる独特な書体で書かれる。「高」の字をはしご高(髙)で書くことがあったり、バランスをとるために〈木へん〉をかんむりのように書く(松→枩などのように、同様に「梅」の字も「木」の下に「毎」を書くことがある)ような、本来の正確な四股名とは異なることがあるので注意が必要である。横綱が一番大きく書かれ、以下大関、関脇と地位が下がるにつれ小さく(細く)書かれるようになっていき、序ノ口の力士になるともはや虫眼鏡が無ければ読めないほどである。現在番付を書いているのは戦後7人目となる幕内格行司木村恵之助で、2007年11月場所から前任の10代式守勘太夫(現36代庄之助)より受け継いでいる。番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た白馬毅

    2010年1月場所の番付で、新三役、新入幕ともに無かったが、この場所で史上初の3場所連続となり新鮮さに欠ける番付となった。またモンゴル出身の白馬と光龍が再入幕となり、外国出身幕内力士が史上最多の17人となった。番付 フレッシュアイペディアより)

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    番付から見た闘牙進

    2001年3月場所の番付で、闘牙(現千田川)が十両に陥落したが、初代高砂浦五郎が相撲会所(現在の相撲協会)に復帰し、響矢(2代高砂)が別番付に幕内格で登場した1882年(明治15年)5月場所以来、120年ぶりに高砂部屋の幕内力士が消えた。なお1999年(平成11年)7月場所に小城錦(現中立)が十両に陥落し、出羽海部屋幕内力士が1899年(明治32年)1月場所に元横綱常陸山が新入幕以来101年で途切れた記録を大きく上回った。番付 フレッシュアイペディアより)

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