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大相撲から見た文部科学省
横綱審議委員会と言う諮問機関や、一部の事務職を外部から採用している以外、すべて元力士(年寄)によって運営され、その閉鎖性は繰り返し指摘される。かつてはおおむね年寄は短命であり、年寄株もむしろ余り気味なことが通例だったが、近年では空き株がほとんどない状況が続いている。結果として年寄株の高騰を招き(額面は9桁、億単位に達している)、1998年5月には「準年寄」制度の導入などで対応したが(2006年末廃止)、それでも数々のトラブルが発生している。小錦、若乃花(花田勝)、曙といった、大関・横綱を務め人気もあった力士たちが次々協会を退職している理由としては、芸能界や格闘技、プロレスなど他分野に新天地を求めたい気持ちがあるが、親方になっても将来が保証されていない現状であり、そうした先行きの不透明感も一因としてあると言われている。なお、年寄になるためには、日本国籍が必要である。運営上の閉鎖性問題もあるが、これは日本相撲協会が文部科学省所管の財団法人であることが大きい。現実に外国出身で三役、横綱まで務める者が現れているが、彼らの中には協会に残るために日本国籍を取得(帰化)している(前述の元関脇・高見山、先代・東関親方など)。(大相撲 フレッシュアイペディアより)
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大相撲から見た年寄名跡
興行としての相撲が組織化されたのは、江戸時代の始め頃(17世紀)とされる。浪人集団との結びつきが強いという理由から、1648年には幕府によって江戸での辻相撲禁止令が出されたが、1684年には、寺社奉行の管轄下において、職業としての相撲団体の結成と、年寄による管理体制の確立を条件として相撲の興行が許可された。この時、興行を願い出た者に、初代の雷権太夫がいて、それが年寄名跡の創めともなった。この時の興行は江戸深川の富岡八幡宮境内で行われた。興行が寺社奉行の管轄となったことで、江戸時代の間、興行は江戸市中の神社や寺院の境内で行われた。本所の回向院での開催が定着したのは、1833年のことである。(大相撲 フレッシュアイペディアより)
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大相撲から見た大錦卯一郎
興行としての相撲が定着することで、力士の待遇の近代化への要求があらわれ、いくつかの紛擾事件が起きるようになった。大阪相撲においては、1922年竜神事件と呼ばれる紛擾が発生し、力士他多くの関係者が廃業し、大阪相撲の実力が低下する。東京相撲でも、1923年に三河島事件と呼ばれる力士待遇の改善を求めるストライキが発生し、その処理を巡って横綱大錦卯一郎が廃業する事件が起こる。1923年9月1日の関東大震災により両国国技館も屋根柱などを残して焼失。1924年1月春場所は、両国国技館再建中のために名古屋で開催された。それを不満に思った一部の力士は、本場所に出場しなかった。(大相撲 フレッシュアイペディアより)