-
大相撲から見た東京大空襲
第二次世界大戦の影響が次第に相撲界にも及び、1944年に両国国技館が大日本帝国陸軍に接収され、5月場所から本場所開催地を小石川後楽園球場に移した。そのために1月場所開催は困難になり、1944年には10月に本場所を繰り上げて開催した。1945年5月場所は晴天7日間、神宮外苑相撲場(後の明治神宮第二球場)で開催予定だったが空襲などのために6月に延期、両国国技館で傷痍将兵のみ招待しての晴天7日間非公開で開催された。今日まで唯一の本場所非公開開催である。これが戦争中最後の本場所となった。ちなみにこれらの場所の幕下以下の取組は事前に1944年の10月は神宮外苑、1945年の6月は春日野部屋で非公開で行われ、このことを記念して、春日野部屋では後々まで稽古場に当時の土を保存していた。また、兵役に就いた力士や、戦死・戦災死・捕虜として抑留された力士もいた。東京大空襲で両国国技館や相撲部屋を焼失。(大相撲 フレッシュアイペディアより)
-
大相撲から見た芸能界
横綱審議委員会と言う諮問機関や、一部の事務職を外部から採用している以外、すべて元力士(年寄)によって運営され、その閉鎖性は繰り返し指摘される。かつてはおおむね年寄は短命であり、年寄株もむしろ余り気味なことが通例だったが、近年では空き株がほとんどない状況が続いている。結果として年寄株の高騰を招き(額面は9桁、億単位に達している)、1998年5月には「準年寄」制度の導入などで対応したが(2006年末廃止)、それでも数々のトラブルが発生している。小錦、若乃花(花田虎上)、曙といった、大関・横綱を務め人気もあった力士たちが次々協会を退職している理由としては、芸能界や格闘技、プロレスなど他分野に新天地を求めたい気持ちがあるが、親方になっても将来が保証されていない現状であり、そうした先行きの不透明感も一因としてあると言われている。(大相撲 フレッシュアイペディアより)
-
大相撲から見た厚生年金
一方で、税金対策や引退時の退職金制度等の表面に表れにくい部分では、他のプロスポーツより充実しているという見方もある。例えば、国技館内には力士のみならず一般の診察も受け付ける診療所があること、健康保険組合を独自に運営していること、厚生年金制度を導入していること、また税金面においては給与所得や退職所得が適用されることにより、自身の報酬を事業所得として申告する他のプロスポーツ選手には無い手厚い控除が受けられること等である。1969年3月11日には国税庁が力士等に対する課税について個別通達を行っており、これに従うことで後援会から受け取る祝儀などを含めて力士が得る有形無形の収入について適切な形で租税計算を行うことが可能となっている。収入の無い幕下以下の力士であっても社会保険に加入することが可能であり、この場合は全額協会保証となる。福利厚生についてはむしろ一般企業に近いとも言える。(大相撲 フレッシュアイペディアより)