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大韓民国から見た金大中
朴正煕の暗殺により、急速に規制が解かれた韓国の政治はソウルの春と呼ばれる民主化の兆しを見せたが、1979年12月12日より始まった粛軍クーデターにより、全斗煥陸軍少将を始めとした「新軍部」が軍を掌握した。新軍部の権力奪取の動きに対して、反対運動が各地で発生したが、80年5月17日に非常戒厳令拡大措置が発令され、政治活動の禁止と野党政治家の一斉逮捕が行われた。5月18日、光州では、戒厳軍と学生のデモ隊の衝突が起こり、これをきっかけに市民が武装蜂起したが、5月27日、全羅南道道庁に立てこもる市民軍は、戒厳軍により武力鎮圧された。(光州事件)。新軍部は朴正煕暗殺後に大統領の職を引き継いでいた崔圭夏を8月16日に辞任させ、全斗煥が大統領に就任し、憲法を改正。翌81年2月25日に行われた選挙により全斗煥が大統領に選出された。1987年、大統領の直接選挙を求める6月民主抗争が起こり、与党の盧泰愚大統領候補による6.29民主化宣言を引き出されため、大統領直接選挙を目指した改憲が約束された。しかしながら、12月に行われた大統領選挙では、野党側の有力な候補が、金泳三、金大中に分裂したために、全斗煥の後継者である盧泰愚が大統領に当選し、軍出身者の政権が続くこととなった。(大韓民国 フレッシュアイペディアより)
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大韓民国から見た盧泰愚
朴正煕の暗殺により、急速に規制が解かれた韓国の政治はソウルの春と呼ばれる民主化の兆しを見せたが、1979年12月12日より始まった粛軍クーデターにより、全斗煥陸軍少将を始めとした「新軍部」が軍を掌握した。新軍部の権力奪取の動きに対して、反対運動が各地で発生したが、80年5月17日に非常戒厳令拡大措置が発令され、政治活動の禁止と野党政治家の一斉逮捕が行われた。5月18日、光州では、戒厳軍と学生のデモ隊の衝突が起こり、これをきっかけに市民が武装蜂起したが、5月27日、全羅南道道庁に立てこもる市民軍は、戒厳軍により武力鎮圧された。(光州事件)。新軍部は朴正煕暗殺後に大統領の職を引き継いでいた崔圭夏を8月16日に辞任させ、全斗煥が大統領に就任し、憲法を改正。翌81年2月25日に行われた選挙により全斗煥が大統領に選出された。1987年、大統領の直接選挙を求める6月民主抗争が起こり、与党の盧泰愚大統領候補による6.29民主化宣言を引き出されため、大統領直接選挙を目指した改憲が約束された。しかしながら、12月に行われた大統領選挙では、野党側の有力な候補が、金泳三、金大中に分裂したために、全斗煥の後継者である盧泰愚が大統領に当選し、軍出身者の政権が続くこととなった。(大韓民国 フレッシュアイペディアより)
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大韓民国から見た朴正煕
李承晩失脚後は、張勉内閣の下、政治的自由化が急速に進展したが、学生を中心とした北への合流を目指した南北統一運動が盛り上がりを見せるに至り、危機感を抱いた朴正煕少将を始めとした軍の一部が1961年5月16日にクーデターを決行し、国家再建最高会議 が権力を掌握した。第三共和国憲法の承認後、朴正煕は1963年10月に第5代大統領に当選 した。1972年、野党勢力の伸張により政権の合法的延長が難しくなった朴正煕は10月17日、非常戒厳令を発し憲法を改正(第四共和国)、大統領の直接選挙を廃止して、自らの永久政権化を目指した。「維新体制」と呼ばれるこの時期には反対派に対する激しい弾圧により、政治的自由が著しく狭まったが、1979年10月26日、側近の中央情報部長により朴正煕は暗殺された。(大韓民国 フレッシュアイペディアより)
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大韓民国から見た金日成
南朝鮮単独で大韓民国が建国された翌月の1948年9月9日、大韓民国の実効支配が及ばなかった残余の朝鮮半島北部は金日成首相の下で朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)として独立した。互いに朝鮮半島全土を領土であると主張する分断国家はそれぞれの朝鮮統一論を掲げ、朝鮮民主主義人民共和国の金日成首相は建国翌日の9月10日に最高人民会議の演説で「国土完整」を訴え、他方大韓民国(南朝鮮)の李承晩大統領は軍事力の行使をも視野に入れた「北進統一」を唱えた。互いを併呑しようとする両政府は1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争によって、実際に干戈を交える事になる。(大韓民国 フレッシュアイペディアより)
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大韓民国から見たサムスングループ
大手製造業である一部財閥系輸出企業は好調だが、韓国全体の雇用に寄与しているとは言いがたく、内需は極めて停滞しており、韓国国内においては財閥系企業の寡占が問題となっている。2008年時点で、韓国の国内総生産の18%、輸出の21%を三星財閥ひとつで占めていた。このため、社会では「二極化」という言葉がよく使われるようになり、経済的格差の拡大が問題となっている。2000年頃から富裕層向けの高層マンションブームとなり、2002年から2012年までの10年間に不動産価格は68.5%上昇(日本のバブル景気とほぼ同率)した。しかし人口動態の高齢化や内需の不振により、既に不動産価格は下落を始めており、ソウルのアパート価格は2011年2月以後22ヶ月連続で下落した。2010年段階で国民の約10人1人にあたる500万人が、屋上部屋、地下、ビニールハウスなどの、政府が定めた最低居住水準に満たない住居で暮らしている。(大韓民国 フレッシュアイペディアより)
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大韓民国から見た朝鮮人民軍
1950年6月25日、朝鮮人民軍(北朝鮮軍)は韓国との境界であった北緯38度線を越えて南下を開始し、朝鮮戦争(韓国動乱)が勃発した。その頃、弱体である韓国軍は敗退を重ね、洛東江以東の釜山周辺にまで追い詰められた。北朝鮮の侵攻に対して国連安保理は非難決議を上げ、米国を中心とする西側諸国は国連軍を結成して韓国軍と共に後退戦を戦っていたが、仁川上陸作戦により北朝鮮軍の戦線を崩壊させ、反攻に転換した。韓国軍・国連軍は敗走する北朝鮮軍を追ってを鴨緑江近辺にまで侵攻した。これに対し中国が義勇軍を派遣して北朝鮮の支援を開始、韓国軍・国連軍を南に押し戻し、一時再びソウルを占領した。その後、北緯38度線付近で南北の両軍は膠着状態になり、戦争で疲弊した米国と北朝鮮は1951年7月10日から休戦合意を巡る協議を開始した。2年間に渡る戦協議の末、1953年7月27日の朝鮮戦争休戦協定締結を以って大規模な戦闘は停止した。ただし、韓国政府は休戦協定に署名しておらず、戦争自体も協定上は停戦状態のままとなっている。この戦争により、朝鮮半島のほとんど全域が戦場となり、インフラや文化財の焼失、戦闘での死者のみならず、保導連盟事件や済州島四・三事件の例にあるように双方とも敵の協力者と見なした一般市民の大量処刑を行うなど、物的、人的被害が著しく、国土は荒廃した。また、38度線が引かれた事により朝鮮半島が分断が確定的となり、朝鮮統一問題が南北朝鮮の最重要課題となっている。(大韓民国 フレッシュアイペディアより)