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栃光正之から見た大鵬幸喜
入幕後はすぐに上位に進出、1956年1月場所では初日に新大関の松登を破り、4日目には横綱・吉葉山から金星をあげた。一時蕁麻疹のために伸び悩んだ時期もあったが、1962年5月場所で3日目に柏戸、12日目に大鵬の両横綱を破るなど13勝2敗と好成績を挙げ、14勝1敗で優勝した弟弟子栃ノ海と同時に場所後に大関昇進を果たした。直前3場所前が西前頭4枚目での11勝であり、これが次点にも及ばないことから当時の感覚としてもやや甘めの大関昇進であった。好成績を挙げながら幕内最高優勝には手が届かなかったものの、決して「待った」をしない立派な土俵態度のために名大関と呼ばれた。出身地の「牛深」にちなみ「ベコ」(牛)の異名があり、土俵態度そのままの実直で礼儀正しい人柄はファンや報道陣などから広く愛された。1965年9月場所から6勝9敗、5勝10敗、5勝10敗と3場所連続で負け越して大関陥落(当時の規定)が決定的となり、1966年1月場所の千秋楽限りで現役引退した。この場所12日目の柏戸戦で鯖折りを受けて右ひざから土俵に落ちたが、負けた栃光はいつもの通り直立不動の姿勢で土俵に一礼して引上げ、その土俵態度の良さから観衆が「よくやったゾ!栃光」と声を上げ、盛んな拍手がわきあがった。(栃光正之 フレッシュアイペディアより)
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栃富士勝健から見た大鵬幸喜
だが同年9月場所では再び十両に陥落し、1971年1月場所で再々入幕。5月場所では自己最高位となる東前頭3枚目に進み、初日に横綱・大鵬と対戦した。この一戦で、大鵬の突き押しを凌いで押し返すと大鵬は尻餅を着き、柏鵬の両方から1度だけの対戦で金星を得るという記録を残した。大鵬は同場所5日目に貴ノ花に寄り倒しで敗れた後引退を表明したが、尻から落ちるという負け方を下位力士相手に2度も喫したことで限界を実感したとされ、栃富士戦での敗戦も引退の要因となっている。大鵬が幕内で対戦した相手のうち、一度も勝てずに終わったのは、栃富士と彼の師匠栃錦、及び錦洋の三人だけである(いずれも一度だけの対戦)。(栃富士勝健 フレッシュアイペディアより)
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掬い投げから見た大鵬幸喜
掬い投げ(すくいなげ)とは、相撲の決まり手の一つである。差し手で褌を取らず、相手をすくうようにして投げる技。技の性質上比較的差し手を容易に取ることができる上に相手の差し手を封じる効果も兼ねるため、手堅い守りの相撲を取る際に重宝される。反面廻しを取っての投げより威力が低いため、決め手となりづらい場合も少なくない。これを十分な武器として扱うためには強い回転が利く上体の柔軟性、或いは高い筋力が必要となる。かつて横綱・大鵬幸喜や旭富士正也が得意としており、この2人は上体の柔軟性から掬い投げを活用することができた。武蔵丸光洋は上手の必要がない右差し一本の相撲を得意としており、差し手を無造作に返すだけでしばしば掬い投げが成立した。(掬い投げ フレッシュアイペディアより)