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二子岳武から見た大鵬幸喜
入門当初から多彩な技を持っており、相撲教習所の指導員が基本を教えようとしたところ担当の親方が持ち味を伸ばさせてやろうと自由にやらせたなど、周囲の理解に助けられて素質を花開かせ、下手投げをはじめとする技を繰り出す取り口を得意とした。特に、内無双・外無双を得意としており、二子岳が現役であった頃はこれらの技が珍手から一般的な技に地位を変えた。1969年11月場所では横綱・大鵬を蹴返しで破り金星を獲得している。しかし、軽量だったこともあって相撲が長くなることもあり、1974年9月場所での前頭10枚目・三重ノ海との一戦では、引分を記録したこともあった(この一番以後、幕内の取組で引分は出ていない)。(二子岳武 フレッシュアイペディアより)
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琴風豪規から見た大鵬幸喜
2012年の理事改選で日本相撲協会の理事に初当選し、巡業部長に就任。しかし、同年4月4日に小浜市で行われていた春巡業の会場内で転倒した際に古傷がある頚髄を捻挫して緊急入院し、同月11日に手術。一時は首から下が麻痺して寝たきりの状態であり、2ヶ月の入院を経てリハビリを開始した時には120?あった体重が90?を割り、握力が左4?、右が0?となっていた。しかしリハビリの甲斐あって、9月に公の場に姿を見せるようになり、11月11日に退院、14日から職場復帰している。2013年春巡業を以って1年ぶりに巡業の職務に復帰し、しばらくは会場の隅でイスに座って稽古を観察する形で職務を行い、同年秋巡業からは怪我が十分に回復したため通常通り土俵下で指導するようになった。後の話によると件の怪我は頸髄の4番から3番が損傷した上に2番にも傷が付いていたといい、「本来ならば呼吸器をつけて寝たきり」だったという。だが当時存命であり同じ病院に入院中であった大鵬が車椅子に乗ってリハビリ病棟へ見舞いに訪れたことをはじめとして多くの相撲人から激励の数々を受け、キャビンアテンダントとして大切な訓練を行っていた娘が3か月の介護休暇を取ってリハビリの支援を行うなどの助力があって復帰を遂げた。リハビリの甲斐あって入院前まで患っていた糖尿病は完治したという。(琴風豪規 フレッシュアイペディアより)
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横綱土俵入りから見た大鵬幸喜
横綱土俵入りの型は「雲龍型(うんりゅうがた)」と「不知火型(しらぬいがた)」の2種類が存在し、それぞれ雲龍久吉と不知火光右衛門が行っていた土俵入りの型を起源として伝えられたものとされ、綱の締め方やせり上がりの型に差異があるのが特徴である(詳細は雲龍型の土俵入り・不知火型の土俵入りを参照)。しかし実際には、四股を踏む前の掌を返す時の構えなどの細部で、指導する親方や横綱自身のアレンジなどによって動作が異なっており、完全には2つの型に集約できないのが実状である。一例として、1987年9月場所後に大乃国康が横綱となった際(雲龍型)、放駒部屋での大乃国の土俵入り稽古の際に二所ノ関一門の先輩横綱である12代佐渡ヶ嶽(不知火型)・18代間垣(雲龍型)・13代鳴戸(不知火型)が所作を細かく指導していたところ、大鵬(雲龍型)と並んで座敷で見守っていた10代二子山(雲龍型)が「好きにやれ。横綱がやれば、それが横綱土俵入りだ」と一喝、助言したことがある。また現在の「雲龍型」と「不知火型」は、その呼称が逆であるという指摘もある(後述参照)。(横綱土俵入り フレッシュアイペディアより)
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若乃花幹士 (初代)から見た大鵬幸喜
栃錦と若乃花の両者共に入門当初は親方衆から「十両から、せいぜい小結まで」と予想されるなど出世に対する期待は凡百のものであった。のちの柏鵬や曙貴が入幕前から注目を集めたのに対して、栃若戦が角界を背負ってたつ看板カードになると予想した者は少なかった。1950年9月場所では栃錦が東前頭3枚目、若乃花が東4枚目と番付で並びながら取組が組まれなかった。それでも、1951年5月場所の初対決がいきなりの大勝負、次の対戦も水入りの末二番後取り直しと、栃錦との取組は常に大熱戦であった。技の打ち合いとしのぎ合いで激しく土俵を動き回る両雄の姿はたちまちファンを魅了し、当時登場したテレビの魅力を発揮するのにもふさわしいものであった。北の富士によると、栃若の取り組みを見たいがために30万円(2016年時点の貨幣価値で200万円に相当)でダフ屋からチケットを買った人がいるほどである。(若乃花幹士 (初代) フレッシュアイペディアより)