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北の湖敏満から見た大鵬幸喜
先輩横綱である輪島は最高の好敵手であり、「輪湖 (りんこ) 時代」を築いた。輪島との通算成績は21勝23敗でほぼ互角で、優勝は両者合わせて38回 (柏鵬の37回を上回る) 。特に1975年9月 - 1978年1月までの15場所間の千秋楽結びの一番は全て「輪島 - 北の湖」という対戦で、千秋楽の結び対戦連続回数15回は史上1位である (2位は白鵬 - 日馬富士の10回、3位は朝青龍 - 白鵬の7回) 。この対戦は、右上手十分の北の湖に対して、輪島は左下手投げを得意としたこともあり、立合いからガップリ四つの横綱同士の力相撲となることが常だった。ちなみに、輪島 - 北の湖による千秋楽結び対戦回数は22回あり、曙 - 貴乃花の27回に次いで、史上2位。(北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)
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藤ノ川武雄から見た大鵬幸喜
1961年(昭和36年)5月場所、伊勢ノ海部屋より初土俵。両親の意向で角界入り後に高校への通学も行い、幕下下位にいた頃に「小柄だから相撲は無理だ。高卒後は拓大へ入れてやる」と兄から打診されたことで学業を選び相撲を辞めることも考えたが大相撲の継続も高校卒業も両方果たすことができた。1966年(昭和41年)1月場所新十両、同年11月場所に新入幕を果たし、戦後生まれの力士として最初の幕内力士となる。入幕3場所目で同門の大関豊山、横綱佐田の山を下した星などで12勝3敗の好成績をあげ殊勲・技能賞をダブル受賞、翌場所入幕4場所目にして関脇に昇進。以後横綱柏戸剛の弟弟子でもあり「今牛若」「ちびっ子ギャング」などの異名をとった相撲振りや力士にしてはスマートな体型や渋い容姿から人気を博し、三賞を全て取る活躍をする。一方で恥ずかしがり屋でも知られ、「土俵は別だけど大勢の人の前に出るのは嫌。マゲをつけてジロジロ見られるのが嫌」などと語るような人物であったため土俵外の話題には乏しかった。ちなみに大鵬の45連勝目の相手(1969年(昭和44年)3月場所初日)でもある。当初はただ頭からぶつかるように指導されたことで新三役の時期まで本人が「右の耳がわいている(耳がこすれて変形すること)のを見ればわかるように、私は典型的な右四つ、右差し」と認識する相撲ぶりに徹していたが、稽古場で頸椎を痛めてしまったことで自信があった握力が神経の圧迫で失われてしまい、以降は動き回る相撲に変わっていった。(藤ノ川武雄 フレッシュアイペディアより)
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青ノ里盛から見た大鵬幸喜
1963年7ガツ場所5日目には大鵬から金星を獲得。その取組では、新弟子に胸を貸すかのような甘い立合いの大鵬に対し、懐に飛び込んだ青ノ里は、大鵬の上体が起きたところを右上手投げで崩し、寄り切った。「稽古場横綱」と呼ばれていた実力者であったが、まさかの黒星を喫した大鵬はしばらく呆然と立ち尽くした。一時は上位でも好成績を残し大関昇進も期待されたが、攻めが遅い所があり小結で勝ち越す事がやっとであった。しかしながら、金星も5つ挙げており(その中のひとつは、1963年7月場所の大鵬の連勝を30で止めたもの)、地力の高さを見せ長きに渡り幕内上中位で活躍した。1967年9月場所には初土俵以来1000回連続出場を果たし、協会から表彰を受けている。(青ノ里盛 フレッシュアイペディアより)
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輪島大士から見た大鵬幸喜
姓は輪島で石川県出身ではあるが輪島市出身ではなく、同じ能登半島の七尾市石崎町出身である。金沢高等学校・日本大学と相撲部で活躍。高校2年時には大鵬が二所ノ関部屋へ勧誘するべく実家まで訪れたこともある。大学では2年連続で学生横綱に輝くなど14個のタイトルを獲得した。学生横綱を決めた一番の相手は、同志社大学の逸見憲治(逸見政孝の実弟)であった。日大卒業前の1970年、花籠部屋(師匠は元幕内・大ノ海)に入門し、同年1月場所に幕下付出(60枚目格)で初土俵を踏んだ。東京農業大学出身の長浜(元小結・豊山、後の年寄・湊→立田川)は大学時代からのライバルである。(輪島大士 フレッシュアイペディアより)