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十勝岩豊から見た大鵬幸喜
引退後は年寄・湊川を襲名して二所ノ関部屋から分家独立、湊川部屋を興して幕内・大龍などを育てたが、部屋別総当たり制を機に1964年(昭和39年)11月場所限りで部屋を閉じ、二所ノ関部屋の部屋付き親方となった。1975年(昭和50年)に二所ノ関親方(大関・佐賀ノ花)が亡くなり、分家独立していた横綱・大鵬と部屋付き親方の押尾川親方(大関・大麒麟)による後継者争いが決まらず、二所ノ関一門の最長老であった十勝岩が暫定的に二所ノ関を引き継いだ。最初は一定期間で後継者は決まると思われていたが、先代未亡人が部屋の関脇・金剛に部屋を継がせたかったために後継者争いが長期化し、1年4カ月後にようやく決着して元の湊川に戻った。1979年(昭和54年)2月12日、癌性腹膜炎のため60歳で逝去した。(十勝岩豊 フレッシュアイペディアより)
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大殿英武から見た大鵬幸喜
中学時代は柔道部に所属し、全国大会に出場するなど活躍した。中学卒業時に角界入りを希望していたが、身長が足らずに一旦は断念し、高校に進学した。しかし、大鵬親方(元横綱・大鵬)から「身長が伸びたら来なさい」と言われたので、身長が規定に達したため大鵬部屋に入門。1986年9月場所に初土俵を踏んだ。相撲経験はほとんど無かったものの、立会いからの素早い出足で期待され三段目上位まで順調に番付を上げた。だが、左眼の網膜剥離を患い番付を下降させ、一時は復調したが今度は右眼も網膜剥離を患い引退を考えた時期もあった。しかし、大鵬親方の励ましもあり不屈の闘志で番付を上げ幕下に定着した。そして1994年3月場所には十両に昇進した。左四つが得意で、右前褌を取ると力を発揮した。また、足腰が強く土俵際に攻められても粘り強かった。しかしこの場所は本来の相撲がほとんど取れず5勝10敗と負け越し幕下に陥落した。その後、網膜剥離・腰痛・痛風のトリプルパンチに見舞われ低迷する。十両復帰を目指して長く幕下、三段目で相撲を取っていたが2001年5月場所を最後に現役を引退した。(大殿英武 フレッシュアイペディアより)
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