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北葉山英俊から見た大鵬幸喜
大関昇進後は1963年7月場所において初日から13連勝を達成し、佐田乃山晋松との優勝決定戦を制して13勝2敗で初優勝を果たした。綱取り場所となった同年9月場所は極度の緊張から初日の廣川泰三戦で敗れたほか、8日目の出羽錦忠雄戦、9日目の柏戸剛戦と連敗したことで綱取りの可能性が完全に消滅した。それでも横綱との対戦では健闘しており、特に大鵬幸喜との通算対戦成績は11勝24敗と、対柏戸剛戦の16勝に次ぐ勝利数を挙げ、「優勝のカギを握る男」と評された。しかし、怪我などの影響で衰えが目立ち、1965年は当時の大関の年間敗戦数ワースト1位(現在は2位)となる46敗を記録。そして大関30場所目となった1966年5月場所を最後に現役を引退した。大関在位30場所は史上1位(当時、現在は栃東大裕と並び史上12位タイ)の記録である。(北葉山英俊 フレッシュアイペディアより)
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北瀬海弘光から見た大鵬幸喜
小兵であるために十両では苦戦が続いたが、1971年11月場所、横綱北の富士とともに幕内・十両アベック優勝を果たして上昇気流に乗り、1972年3月場所、新入幕を飾った。その場所、前半戦から勝ち進んだことから終盤には大関大麒麟や関脇三重ノ海と対戦し、11日目には三重ノ海をうっちゃりで破った。新入幕力士が関脇に勝ったことは大鵬(北瀬海と同じ前頭13枚目、1960年1月場所13日目、対出羽錦)以来の快挙であった。しかしこの場所、10勝5敗でありながらも三賞からもれたことが、技能賞は6回も候補に挙がりながら1回の受賞にとどまったように、その後の彼の不運を表したようなものであった。その後も、妙に取組運が弱く、平幕で千秋楽のこれより三役に登場することが多かった。(北瀬海弘光 フレッシュアイペディアより)
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輪鵬和久から見た大鵬幸喜
高校時代は柔道をやっており、九州高校柔道大会3位に入った。多くの相撲部屋の勧誘を受けた末、花籠部屋に入門。1977年3月場所で初土俵。初土俵から1982年3月場所までは郷土の玄界灘と横綱・大鵬幸喜に因んだ玄界鵬の四股名を名乗っていた。その体格から入門直後から期待され、順調に番付を上げていった。輪島と共にランニングを行って調整していたことで知られ、その様子を収めた写真も現存している。初土俵から約1年後の1978年5月場所で早くも幕下に昇進した。その後、幕下生活が長かったが、1983年5月場所で十両に昇進した。途中、現役末期に付き人を行っていた縁から「俺みたいに強くなれるぞ」と輪島から期待を込められ、1982年5月場所より輪鵬の四股名を与えられた。しかしその願いとは裏腹に十両の座は1場所で明け渡し、結局この場所が最初で最後の十両在位となった。その後、部屋付きの放駒から「花籠さんはその内また問題起こすから、四股名変えた方がいいよ」と勧められ、1984年5月は暫定的に本名を名乗って土俵に上がり、翌7月場所からは最初の四股名である玄界鵬に戻した。1986年9月場所限りで廃業した。(輪鵬和久 フレッシュアイペディアより)
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木村庄之助 (24代)から見た大鵬幸喜
1911年に9歳で初土俵を踏み、最初阿武松部屋、のち出羽海部屋に所属した。行司名は木村芳松→式守義(義松とする資料も有)と変わったあと、1927年に式守伊三郎 (初代) と改名し、その後、1949年1月、式守代々の名跡式守鬼一郎 (5代) 、1960年1月、立行司20代式守伊之助、1963年1月、24代木村庄之助を襲名し、柏鵬時代の幕開けから1965年にスタートした部屋別総当たり制直後まで、数々の名勝負を裁いた。(木村庄之助 (24代) フレッシュアイペディアより)