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    大鵬幸喜から見た物言い

    同年3月場所で東前頭4枚目まで番付をあげるが、序盤から横綱・三役陣に連敗を喫する。2日目の朝汐戦は横綱初挑戦となったが、朝汐が立ち遅れたのを待ったかと思い一瞬力を抜いたところをつけ込まれる形で寄り切られ、物言いがついたものの行司軍配通り。4日目には前場所優勝の栃錦にいいところなく押し出され、栃錦とはこれが唯一の取組になった(栃錦は翌場所引退)。後半の平幕戦で盛り返したものの13日目福田山戦できわどい相撲を落として負け越し、最終的に7勝8敗でこの場所が生涯で唯一となる皆勤負け越しとなった(それ以外の場所で、皆勤した場所ではすべて二桁勝利を記録している(1965年5月場所は9勝6敗だが、千秋楽に不戦敗))。またこの場所は柏鵬がともに幕内で皆勤して取組が組まれなかった唯一の場所でもある。大鵬幸喜 フレッシュアイペディアより)

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    大鵬幸喜から見た両国国技館

    2008年(平成20年)11月16日付で、協会の理事会で体調不良を理由に相撲博物館館長を辞任することが承認された。同年12月26日、協会の仕事納めの日に相撲博物館館長職を退いたが、「たまには国技館に足を運んで(相撲を)ゆっくり見たい」と相撲への思いは変わらないと語った。大鵬幸喜 フレッシュアイペディアより)

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    大鵬幸喜から見た真綿

    非情に手堅く、胸を合わせずに前屈みになって腰を引く「逆・くの字」の体勢で相手の攻めを防ぎ、横へ回りながら自分有利の体勢に持ち込み、投げで崩すか寄り切る。差すと必ず差し手を返し、一度掬って相手の出足を止め、その後は腰を落として寄っていくが、左四つの場合は出ておいての右上手投げで決めた。体勢、とりわけ懐の深さに加え、真綿やスポンジに例えられるほど身体が柔らかく、どんな当たりをも受け止めても崩れない相撲を可能にした。立合いも上手く、最晩年の1971年(昭和46年)3月場所では初挑戦の大雪嶺登が奇襲として一度目の仕切りで立った際も難なく捕まえて勝利している。大鵬幸喜 フレッシュアイペディアより)

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    大鵬幸喜から見た金星 (相撲)

    続く5月場所は前頭6枚目に下がって出直しとなったが、初日朝汐を破って横綱挑戦3戦目で初勝利、生涯唯一の金星を挙げるなど11勝4敗で二度目の敢闘賞。7月場所で新小結に昇進すると、この場所でも11勝4敗、9月場所では20歳3ヶ月の史上最年少(当時)で新関脇となる。11月場所では13勝2敗の成績を挙げ、これも当時の史上最年少となる20歳5ヶ月で幕内最高優勝を達成し、場所後やはり史上最年少で大関へ昇進した。入幕した年に大関昇進を果たした力士は2016年現在でも大鵬のみ(入幕から6場所での大関昇進も、年6場所制後最短である)で、同じく入幕した1960年に年間最多勝を獲得という、賞の発足後史上唯一の記録を立てた。小結・関脇では36勝9敗という圧倒的な強さを誇り、合計3場所で通過となった。また、新入幕から6場所目での初優勝は年6場所制以降では当時の最速記録だった。この場所でTBSアナウンサーの小坂秀二が「柏鵬時代」という言葉を発したことをきっかけに、それが一気に定着するに至った。大鵬幸喜 フレッシュアイペディアより)

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    大鵬幸喜から見た樺太庁

    大鵬 幸喜(たいほう こうき、1940年(昭和15年)5月29日 - 2013年(平成25年)1月19日)は、北海道川上郡弟子屈町川湯温泉(出生地は樺太敷香郡敷香町)出身の元大相撲力士。第48代横綱。本名は納谷 幸喜(なや こうき)であるが、一時期は母親の再婚によって住吉 幸喜(すみよし こうき)と名乗っていたこともあった。大鵬幸喜 フレッシュアイペディアより)

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    大鵬幸喜から見た潜水艦

    1940年(昭和15年)に、ロシア革命後に樺太へ亡命したウクライナ人のコサック騎兵隊将校、マルキャン・ボリシコの三男として、樺太の敷香町(現・ロシアサハリン州ポロナイスク)に生まれた。敷香町は本来日本領の南樺太に位置するため、外国出身横綱には数えない。出生の直後に激化した太平洋戦争によってソ連軍が南樺太へ侵攻してきたのに伴い、母親と共に最後の引き揚げ船だった小笠原丸で北海道へ引き揚げることとなった。最初は小樽に向かう予定だったが、母親が船酔いと疲労による体調不良によって稚内で途中下船した。小笠原丸はその後、留萌沖で国籍不明の潜水艦(ソ連の潜水艦との説がある)から魚雷攻撃を受けて沈没したが、大鵬親子はその前に下船していたため辛くも難を逃れた(三船殉難事件)。その点、同じく焼け跡世代でありながらも戦火とは無縁の山形の自然で伸び伸びと育った柏戸とは対照的である。大鵬幸喜 フレッシュアイペディアより)

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    大鵬幸喜から見た天才

    その強さと出世の早さ故か、相撲の天才と呼ばれることも多かったが、本人は「人より努力をしたから強くなった」としてこれを嫌った。大鵬の素質に惚れ込んだ二所ノ関の徹底的指導によって鍛え上げられたが、その指導内容は四股500回、鉄砲2000回、瀧見山延雄による激しいぶつかり稽古というスパルタぶりだった。本人は弟弟子の大麒麟將能の方が天才と呼ぶにふさわしいと発言している。大鵬の取り口を批判している玉ノ海にしても土俵に上がった大鵬を見て「これはね、大鵬の体は稽古をして大きくなった体ですからな」と褒め「ただ大飯を食らったんじゃない」と表現するなど稽古で素養を開花したことについては評価している。1966年頃の取材ではバーベルやエキスパンダーなどを使用した科学的トレーニングを取り入れていることが明らかになり、相撲の稽古だけにこだわらない一面もあった。大鵬幸喜 フレッシュアイペディアより)

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    大鵬幸喜から見た故人

    大鵬の通夜は1月30日、葬儀・告別式は1月31日にいずれも青山葬儀所で営まれた。王貞治のほか黒柳徹子、第69代横綱・白鵬翔らが弔辞を読んだ。没後、菩提寺(江東区妙久寺)から『大道院殿忍受錬成日鵬大居士』という戒名が授けられると共に、更に多年に亘る相撲界での功績やその活躍が社会に与えた影響などが評価され、日本政府から没日の1月19日付にて正四位並びに旭日重光章が追贈された。同年1月31日に、日本政府が内閣府に国民栄誉賞授与に向けて、検討を指示した。同年2月15日に政府が正式に国民栄誉賞を贈ることを発表した。同年2月25日に遺族(夫人)と白鵬らが出席して故人として国民栄誉賞が授与された。大鵬幸喜 フレッシュアイペディアより)

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    大鵬幸喜から見た焼け跡世代

    1940年(昭和15年)に、ロシア革命後に樺太へ亡命したウクライナ人のコサック騎兵隊将校、マルキャン・ボリシコの三男として、樺太の敷香町(現・ロシアサハリン州ポロナイスク)に生まれた。敷香町は本来日本領の南樺太に位置するため、外国出身横綱には数えない。出生の直後に激化した太平洋戦争によってソ連軍が南樺太へ侵攻してきたのに伴い、母親と共に最後の引き揚げ船だった小笠原丸で北海道へ引き揚げることとなった。最初は小樽に向かう予定だったが、母親が船酔いと疲労による体調不良によって稚内で途中下船した。小笠原丸はその後、留萌沖で国籍不明の潜水艦(ソ連の潜水艦との説がある)から魚雷攻撃を受けて沈没したが、大鵬親子はその前に下船していたため辛くも難を逃れた(三船殉難事件)。その点、同じく焼け跡世代でありながらも戦火とは無縁の山形の自然で伸び伸びと育った柏戸とは対照的である。大鵬幸喜 フレッシュアイペディアより)

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    大鵬幸喜から見た叩き込み

    大兵にも関わらず、前捌きや回りこみが巧みで冷静・緻密な相撲を取った。投げ技の中では上手投げも強かったが、特に左差し手を十分に返してから放たれる掬い投げの上手さが際立っており、伝家の宝刀と称された。前傾姿勢で腰を引く構えによって相手に廻しを取りにくくさせたが、自分も廻しが遠くなるため、掬い投げを多用した。1970年(昭和45年)5月場所の千秋楽では北の富士の上手投げを掬い投げで打ち返して全勝を阻止したが、北の富士は「柔らかさ負けしたよ」と嘆いた。通常、廻しを取らずに下手から投げる掬い投げは上手投げより効果が薄いとされるが、大鵬の場合、懐の深さに加えて柔軟な長身で上体の大きなひねりが可能だったことが、掬い投げを非常に有効にさせていた。突っ張りも強く、突っ張ってからの叩き込みも懐の深さ故によく決まった。だが、左膝を痛めた1968年(昭和43年)以後は叩き込みなどの引き技に頼る相撲が目立つようになって批判を浴びている。大鵬幸喜 フレッシュアイペディアより)

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