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    大鵬幸喜から見た福田山幸雄

    同年3月場所で東前頭4枚目まで番付をあげるが、序盤から横綱・三役陣に連敗を喫する。2日目の朝汐戦は横綱初挑戦となったが、朝汐が立ち遅れたのを待ったかと思い一瞬力を抜いたところをつけ込まれる形で寄り切られ、物言いがついたものの行司軍配通り。4日目には前場所優勝の栃錦にいいところなく押し出され、栃錦とはこれが唯一の取組になった(栃錦は翌場所引退)。後半の平幕戦で盛り返したものの13日目福田山戦できわどい相撲を落として負け越し、最終的に7勝8敗でこの場所が生涯で唯一となる皆勤負け越しとなった(それ以外の場所で、皆勤した場所ではすべて二桁勝利を記録している(1965年5月場所は9勝6敗だが、千秋楽に不戦敗))。またこの場所は柏鵬がともに幕内で皆勤して取組が組まれなかった唯一の場所でもある。大鵬幸喜 フレッシュアイペディアより)

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    大鵬幸喜から見た玉ノ海梅吉

    基本的には左四つに組みとめての寄りと投げが主体のスタイルだが、押し相撲や右四つでも相撲が取れた。良く言えばオールラウンダーで、悪く言えば絶対的な型がなかった。この点は右四つの完成された型を持った双葉山定次とは対照的で、大鵬以前はこういった相撲は小兵のやることで横綱・大関には相応しくないとみられていた。また「逆・くの字」の体勢を「へっぴり腰」と揶揄されることもあり、腰の力で相手の攻めを受け止めて取る相撲を本格的とする立場の評論家(小坂秀二など)から「小さな相撲」と批判されたこともある。ただ、相手次第で取り口を変える柔軟性を持っていたという点では今でも非常に評価が高く、二所ノ関は「型のないのが大鵬の型」「名人に型なし」と批判に反駁した。大鵬が勝ち続けて昭和の大横綱へと成長すると、「型のない」大鵬の相撲は、状況に応じて相撲を変える「自然体」とも評価されるようになった。一方で、玉ノ海梅吉は大鵬がどれほど結果を残しても批判を止めなかった。玉ノ海は概して柏戸などのような速攻相撲の力士を好み、攻めの遅い大鵬は玉ノ海の趣向に反したようである。大鵬幸喜 フレッシュアイペディアより)

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    大鵬幸喜から見た朝潮太郎 (4代)

    亡くなるまで日刊スポーツの相撲担当評論家を務め、本場所開催中(奇数日目)は同誌に解説「土評」を連載していた(偶数日目は高砂浦五郎の「大ちゃん 大分析」)。大鵬幸喜 フレッシュアイペディアより)

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    大鵬幸喜から見た千代の富士貢

    大鵬が入幕する前は、角界の最大派閥は出羽海一門で、非主流派とみなされる二所ノ関所属の大鵬は、親方としての出世は遅いと見られていたが、1976年(昭和51年)に35歳の若さで役員待遇・審判部副部長に就任した。ところが、1977年(昭和52年)に脳梗塞によって倒れ、左半身麻痺などその後遺症が残ったことで理事長などの重要職に就任する見込みが無くなった。引退後に年寄名を大鵬 翔己(たいほう しょうき)としていたが、この病気を患って以降は現役時代の「大鵬 幸喜」に戻している。病気自体は不屈の精神で妻・芳子の献身もあってリハビリを重ねながら回復して歩ける程度には回復し、1980年(昭和55年)には理事に就任した。地方場所(名古屋場所担当)部長、さらには相撲教習所所長などを歴任し、8期務めた後の1996年(平成8年)に役員待遇へ退いた。「巨人、大鵬、卵焼き」と称された時代の一方の雄である長嶋茂雄が脳梗塞に倒れた時には、やはり特別な感情が湧いたと語っている。その回復が実を結び、2000年(平成12年)には自身同様「昭和の大横綱」と評される北の湖敏満(太刀持ち)と九重貢(元・千代の富士、露払い)の2人を従えて、還暦土俵入りを披露した。ただし、前述の脳梗塞の後遺症から四股が踏めないため、土俵入りそのものは行えず、赤い綱を締めて土俵上で雲龍型のせり上がりの構えを取ることと、土俵中央に立って柏手を打つ(これも1回ではうまくいかなかった)という、一部の所作を披露したのみであった。大鵬幸喜 フレッシュアイペディアより)

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    大鵬幸喜から見た大雪嶺登

    非情に手堅く、胸を合わせずに前屈みになって腰を引く「逆・くの字」の体勢で相手の攻めを防ぎ、横へ回りながら自分有利の体勢に持ち込み、投げで崩すか寄り切る。差すと必ず差し手を返し、一度掬って相手の出足を止め、その後は腰を落として寄っていくが、左四つの場合は出ておいての右上手投げで決めた。体勢、とりわけ懐の深さに加え、真綿やスポンジに例えられるほど身体が柔らかく、どんな当たりをも受け止めても崩れない相撲を可能にした。立合いも上手く、最晩年の1971年(昭和46年)3月場所では初挑戦の大雪嶺登が奇襲として一度目の仕切りで立った際も難なく捕まえて勝利している。大鵬幸喜 フレッシュアイペディアより)

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    大鵬幸喜から見た栃東知頼

    再起をかけた1966年(昭和41年)3月場所からは再び6連覇を達成するが、1967年(昭和42年)には左肘を負傷し、そのケガの分を取り戻そうと稽古で無茶をしたことで左膝靭帯断裂の重傷を負い、1968年(昭和43年)3月場所から3場所連続で全休した。復帰した同年9月場所では、初日に栃東知頼と対戦して敗れたことで周囲から限界と思われたが、慎重に勝ちを求めた結果、叩きを多用する相撲に変わった。横綱として内容は冴えないが、同場所2日目から1969年(昭和44年)3月場所初日までの間に双葉山定次(69連勝)に次ぐ45連勝を記録した。この連勝記録は、同場所2日目に戸田智次郎に押し出しで敗れたため途切れたが、ビデオ画像や写真では戸田の足が先に出ていたため「世紀の大誤審」と問題になり、この翌場所からビデオ画像の導入が始まった。しかし、大鵬自身は誤審の判定を下された件について不満を述べることはせず、むしろ誤審を招くような相撲をとった自分に責任があるとして、「ああいう相撲をとった自分が悪いんです」とだけ語った。この発言は、大鵬の高潔な相撲哲学を象徴する言葉として話題を呼び、横綱としての大鵬の評判を以前にも増して高めることになった。大鵬幸喜 フレッシュアイペディアより)

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    大鵬幸喜から見た北の富士勝昭

    1964年(昭和39年)からは本態性高血圧によって幕内で初の途中休場となり、入院。退院早々二所ノ関からは龍沢寺で座禅を組むよう命じられた。さらに1965年(昭和40年)には柏戸や北の富士勝昭と共にアメリカ合衆国から拳銃を密輸入していたことが発覚して書類送検され、罰金3万円(現在の15万円に相当)の略式起訴処分。警視庁の調べに対し、大鵬は「若羽黒の件がバレ、怖くなって隅田川に捨てた」と供述していた。しかし日本相撲協会からは譴責処分に留まった。この直後の1965年5月場所は左足首関節内骨折で9勝6敗、千秋楽は休場して不戦敗となった。大鵬幸喜 フレッシュアイペディアより)

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    大鵬幸喜から見た明武谷力伸

    新大関となった1961年1月場所は10勝5敗に終わり、13勝2敗で初優勝の柏戸に主役を譲って綱取りの面でも一歩を先んじられる形になった。しかし翌3月場所からほぼ毎場所優勝争いにからみ、7月場所では柏戸と朝潮(もと朝汐)の難敵ふたりを連破して13勝2敗、大関としての初優勝を果たした。なお朝潮とはこれで対戦成績を4勝4敗と五分にし、これが最後の取組となった。9月場所では12勝3敗、柏戸と平幕の明武谷との優勝決定戦を制して連続優勝、場所後柏戸とともに横綱に同時昇進を果たす。大鵬21歳3ヶ月、柏戸22歳9ヶ月での横綱昇進は、ともにそれまでの最年少記録だった照國萬藏の23歳3ヶ月を更新するものだった。大鵬幸喜 フレッシュアイペディアより)

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    大鵬幸喜から見たボビー・ダーリン

    横綱時代の歌のレパートリーはサンタ・ルチア、オー・ソレ・ミオ、エルビス・プレスリー、ボビー・ダーリンなど。大鵬幸喜 フレッシュアイペディアより)

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    大鵬幸喜から見た福の花孝一

    現役晩年に至っても、北の富士と玉の海正洋の両横綱に対しては最後まで壁として君臨し続けた。1971年(昭和46年)1月場所には32回目の優勝を果たしたが、千秋楽の玉の海戦では寄り切って1敗で並び、優勝決定戦ではその玉の海と水入りの大相撲。最後は玉の海の下手投げを左上手投げに打ち返して寄り切った。同年3月場所でも12勝と健在ぶりを示したが、同年5月場所で栃富士勝健に敗れた際に尻から落ちたことで体力の限界を感じ、さらに5日目には新鋭だった貴ノ花利彰に同じく尻から落ちる敗戦を喫した。貴ノ花との一番を詳細に説明すると、大鵬は左かち上げから左ハズ、右おっつけで攻め込んだが、貴ノ花が右おっつけから右上手を取って大鵬の左腰に食いつく絶好の体勢になり、掬い投げや突き押しで応戦するものの貴ノ花に体を預けられて尻から落ちて行った、という内容である。その後大鵬自身、翌6日目の福の花孝一戦を「これで自身最後の相撲としたい」と申し出たが、日本相撲協会から「死に体で土俵に上がる事は出来ない」と却下。結局福の花戦は不戦敗となり、貴ノ花との取組が現役最後の一番となった。大鵬幸喜 フレッシュアイペディアより)

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