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蝶野正洋から見た天山広吉
1994年のG1優勝後、「武闘派宣言」によって入場テーマ曲も変えてヒールターン。黒を基調としたコスチュームに一新し、馳浩を大流血に追い込んだ末出血する頭部を掻きむしりながらのSTFで破った。テーマ曲など現在まで続くスタイルを確立した。週刊プロレスはこの蝶野を「BLACKJACK」と称した。1995年に天山広吉、ヒロ斎藤とヒールユニット狼群団を結成。1996年に新日本と提携していたWCWに参戦、ハルク・ホーガン率いるnWoに加入し、帰国後にその日本支部としてnWo JAPANを結成。その総帥としてグレート・ムタ(既に武藤敬司として活躍)ら日本人、外国人メンバーを次々と増員し、「nWo Tシャツ」が大量に売り上げられるなど、一大ムーヴメントを起こし、同年「プロレス大賞MVP」を受賞した。1998年8月8日、大阪ドームで藤波辰爾を破り、8回目の挑戦にして遂に悲願のIWGPヘビー級王座初戴冠。しかし首の負傷により、防衛戦を行うことなく王座を返上、長期欠場に入った。(蝶野正洋 フレッシュアイペディアより)
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プロレスリング・ノアから見た天山広吉
中邑真輔らによる2009年1月4日新日本東京ドーム大会への対戦要請に呼応して、三沢、杉浦、秋山、佐野が出場した。が実は後にドーム参戦はノアからのオファーだったことが発覚した。その後のノア興行に中邑、ミラノコレクションA.T.、天山広吉、金本浩二、ライガーが参加。さらに2009年に開催されたベスト・オブ・ザ・スーパージュニアに、ノアの所属選手として菊地毅、青木篤志の2名が初参加している。(プロレスリング・ノア フレッシュアイペディアより)
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アングル (プロレス)から見た天山広吉
世間で話題・注目の事象に便乗した行動をとることで、マスコミに取り扱ってもらうことを目的としたもの。永田裕志の「チョイ悪オヤジ」・「ハンカチ王子」化など。「自分の方が早かった」などと主張することが多い。2000円札発行時に、チーム2000の天山広吉・小島聡が紙幣を咥えてアピールをしたこともその代表例。(アングル (プロレス) フレッシュアイペディアより)
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馳浩から見た天山広吉
佐々木健介が海外武者修行から帰国後、暫くしてから両者は唯一無二の同期タッグ「ハセ・ケン」として闘魂三銃士やスタイナー・ブラザーズらと名勝負を展開する。またこの時期の2人は新日本道場の鬼教官も兼務しており、当時新日本に入団した第三世代と呼ばれる永田裕志、中西学、天山広吉、小島聡、大谷晋二郎、金本浩二、高岩竜一らの指南役となり、一人前のレスラーとして育て上げた功績は大きい。しかしながら、オールドファンや先輩レスラーからは馳のコーチ就任から新日本らしさが失われたとして批判を浴びることもしばしばある。馳が全日本プロレスに移籍して以降、両者は長らくタッグを組むことがなかったが、2003年3月1日に行われたWJプロレス旗揚げ戦で7年ぶりに「ハセ・ケンタッグ」が復活した。(馳浩 フレッシュアイペディアより)
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小橋建太から見た天山広吉
『ひらめ筋GOLD』の「ハイパー騎馬戦チャンピオンズカップ」の出場要求を受けた時、秋山が出ないと聴くと、秋山の控え室に来て「準! お前出ろよ!」と言った。「その日は予定があるから」と秋山が断ると「準が出ないなら俺も出ないから!」と言い出した(秋山談)という。結局秋山も出ることになり、小橋、秋山、力皇、ムシキング・テリーというノア最強の布陣を組む。一試合目の新日本プロレス(天山広吉、タイガーマスク、棚橋弘至、中邑真輔)には勝利したが、次戦のWRESTLE-1(曙、プレデター、WRESTLEマスク1号、2号)には、曙の圧倒的な体格の前に押し切られ敗北した。この敗北に対し小橋は、「思った以上に悔しい」と語っている。(小橋建太 フレッシュアイペディアより)