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ノラ・グリーンウォルドから見た天山広吉
1999年からWCWのパワープラントでトレーニングし、ランディ・サベージが中心に発足した「チーム・マッドネス」の一員としてデビューする。ミス・マッドネスの名で、主にマネージャーとして活動。その後モナと名を変え、2000年4月7日の新日本プロレス東京ドーム大会に、グレート・ムタのマネージャーとして来日。天山広吉に見事なドロップキックを決めてみせた。2000年8月にWCWを解雇される。(ノラ・グリーンウォルド フレッシュアイペディアより)
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キング・ハクから見た天山広吉
2016年1月4日、新日本プロレスの『WRESTLE KINGDOM 10』において、ロイヤルランブル方式の1分時間差バトルロイヤルである18人参加のニュージャパンランボーに、BULLET CLUBのシャツを着て15番目の選手として登場。永田裕志がエプロン越しに小島聡にスリーパーホールドをかけているところを、背後からのタックルで永田をリング下に落として退場させ、直後に小島をも投げ捨てる活躍を見せたが、天山広吉のアナコンダバイスに屈して10番目の失格となった。試合後のインタビューでは、新日本プロレスに戻れた喜びと引退した天龍源一郎への惜別のコメントを伝えた。翌5日の『NEW YEAR DASH!!』にもBULLET CLUBのメンバーとして参戦した。同年11月12日には、新日本プロレスがニュージーランドのオークランドにて開催したチャリティ興行に出場、息子たちとトリオを組んでの6人タッグマッチで勝利を収めた。(キング・ハク フレッシュアイペディアより)
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デイビーボーイ・スミス・ジュニアから見た天山広吉
2012年8月、古巣である新日本プロレスに参戦し鈴木みのるがリーダーを務めるヒールユニット「鈴木軍」に参加、同ユニットのメンバーの一人で元WWEのランス・アーチャーと共に外国人タッグチーム、K.E.S. (Killer Elite Squad)を結成した。新日本に復帰した当初のリングネームはIGFで使用したハーリー・スミス名義であったが、新日本からの要請で9月よりデイビーボーイ・スミス・ジュニアに変更になった。10月8日のPPV、NJPW 40th anniversary KING OF PRO-WRESTLINGにて、テンコジ(天山広吉&小島聡)が保持するIWGPタッグ王座に挑戦し見事勝利を収めて第61代IWGPタッグ王者となった。(デイビーボーイ・スミス・ジュニア フレッシュアイペディアより)
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山崎一夫 (プロレスラー)から見た天山広吉
またそれ以降はタッグ戦線での活躍が増え、橋本、飯塚高史(第27代IWGPタッグ王座)、佐々木健介(第32代IWGPタッグ王座)、他にUWF色の強い永田裕志、木戸修とも組み、飯塚高史を加えたユニットは「山崎隊」と呼ばれていた。特にタッグにおいて名勝負が少ないと言われた新日本マットにおいて、蝶野正洋&天山広吉組と山崎&飯塚組のIWGPタッグ王座を巡る攻防は毎回名勝負となり、ファンを沸かせた。この頃のワールドプロレスリング(テレビ朝日)において実況を担当した辻よしなりは、新日本殴り込みに際して山崎が発した言葉から山崎をシェフになぞらえ、「さぁ山崎。今日のメインディッシュは何分で調理できるか、正に腕の見せ所です」といった実況がよく聞かれた。(山崎一夫 (プロレスラー) フレッシュアイペディアより)