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花山院長親から見た天橋立
南朝末期には吉野を離れて流浪していたらしく、元中9年/明徳3年(1392年)の南北朝合一以前に上洛して妙光寺で出家し、臨済宗法燈派の聖徒明麟に就いて子晋明魏と号した。応永2年(1395年)東山如住院へ移り、同5年(1398年)その付近に耕雲庵を結んで南禅寺の塔頭とし、その庵号をもって耕雲とも称する。またこの前後に明麟の開いた同寺塔頭の禅栖院にも住する傍ら、『両聖記』・『霊巌寺縁起』・『衣奈八幡宮縁起』を執筆した。長親の歌人としての名声は京都でも聞こえ、やがて足利将軍の歌道師範となり、同14年(1407年)12月足利義満の十首歌へ批点を加え、翌15年(1408年)3月には歌論書『耕雲口伝』を執筆。同18年(1411年)大内盛見に『古今集』を講じ、同20年(1413年)将軍足利義持に『孟子』を進講した。同21年(1414年)2月義持の命で冷泉為尹・宋雅とともに北野社十五首歌を詠進し、同年冬には足利満詮邸で「七百番歌合」(散佚)の判者を務めている。またこれ以降、義持の没する応永35年(1428年)まで厚遇を受け、奈良・天橋立などの遊覧、北野・男山・清水寺への参宮・参籠などにしばしば随行したが、同25年(1418年)9月の伊勢参宮に随行した際の紀行文が『耕雲紀行』である(翌春執筆)。その他、同26年(1419年)伏見宮貞成親王の仙洞歌会や歌合に参会し、同29年(1422年)5月『日御碕社造営勧進記』を記し、同32年(1425年)頃には正徹とも親交を得るなど、晩年まで幅広く活躍した。(花山院長親 フレッシュアイペディアより)
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京都府道616号笠松公園線から見た天橋立
天橋立北側の山上にある路線で、沿線には股のぞきで著名な傘松公園があるが、本路線名の笠松公園とは別地点にある別の公園である。(京都府道616号笠松公園線 フレッシュアイペディアより)