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筒井嘉隆から見た大阪市天王寺動物園
1932年から大阪市の吏員として大阪市天王寺動物園に勤務する。「(動物園は)興行師的立場を捨て去り、一般大衆に迎合することなく動物学的な高所に立って、市民を導いてゆかなければならない」という1936年の発言に、学者としての筒井の姿勢がよくあらわれている。1945年から1946年まで天王寺動物園園長。のち大阪市教育局社会教育課に転属し、1950年の自然科学博物館設置条例制定に貢献する。1952年、大阪市立自然科学博物館(現在の大阪市立自然史博物館)設立とともに初代館長に就任、1965年までこの地位にあった。日本野生生物基金、日本野鳥の会などの役員を歴任し、のち芦屋大学教授に就任、生態学を講義するとともに、関西自然環境保全協会、淀川の自然を守る会、生き物趣味の会などを設立し会長を務めた。「鳥の棲めないところに人間は住めない」をモットーとし、生涯を動植物の保護と自然環境の保全に尽くした。戦後日本における自然保護運動の先駆的学者である。(筒井嘉隆 フレッシュアイペディアより)
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コアラから見た大阪市天王寺動物園
1980年までオーストラリア以外でコアラを見ることができたのは、1915年にコアラの飼育を始めたアメリカ合衆国のサンディエゴ動物園だけであり、コアラの生息数が減少してからはオーストラリア政府は海外へ輸出することを禁止していた。1980年にオーストラリアの法律が改正され、1984年および1985年にオーストラリアのタロンガ動物園から日本の多摩動物公園、東山動植物園、平川動物公園の3園に贈られた。この時にユーカリが日本で育てられるかも調べられたほか、コアラが到着する3週間前には餌となるユーカリが輸入され、またそれと同時にコアラが一日にどのような葉が適しているのか、どのくらいの食糧なのかなど様々な飼育方法などの情報が提供された。この時、日本では“コアラ・ブーム”が沸き上がることとなった。オーストラリアからコアラが贈られた際、日本からはそのお返しにオオサンショウウオを贈っている。さらに翌年1986年に埼玉県こども動物自然公園・横浜市立金沢動物園、1987年に淡路ファームパーク、1989年に大阪市天王寺動物園、1991年に神戸市立王子動物園、1996年に沖縄こども未来ゾーンと増えたが、2010年に沖縄こども未来ゾーンで飼育されていたコアラが死亡したため、2016年2月現在、日本国内でコアラを飼育している動物園は8つである。しかし、近年コアラの飼育数が減少しているため、全国のコアラを飼育する動物園が協同繁殖に取り組んでいる。(コアラ フレッシュアイペディアより)