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  • SHIROH

    SHIROHから見た天草諸島天草諸島

    そして、その頃天草にもSHIROHと名乗る少年がいた。名はシロー。天草の入江にある朽ち果てた船を根城にするゼンザやマツたちと同じく、伴天連(バテレン)と日本人との間に生まれた混血児たちで、幕府からは国外追放の憂き目に合ったものの、船が嵐で難破してしまい、この天草の入り江に流れ着いたのだった。歳若く、人目で混血だとわかるその姿にしても、キリシタン弾圧に興じる幕府役人には目ざとく捉えられるに違いないであろうに、彼らはこの入り江で自由に生きていた。シローの歌のおかげで。シローは不思議な力を持っていた。シローが歌うと、私利私欲に走る三宅蔵人ら天草の役人達も、歌に操られ、うまくだまくらかされ彼らを捉えることができないのだった。シローの歌は人の心を操ることができた。その一部始終をみていた女がいた。絵双紙屋のお蜜こと伊賀のくノ一水鏡のお蜜だった。お蜜は、老中・松平伊豆守信綱の命を受け幕府の密偵として放たれた柳生十兵衛の連絡役として天草を探っていたのだ。シローの不思議な力のことは、お蜜の妹で、江戸城での連絡役・伊賀のクノ一お紅を通しすぐに松平伊豆守信綱の知るところとなった。おりしも、島原藩領主・松倉勝家が旧友・板倉重昌とともに、江戸の松平伊豆守信綱の屋敷を訪ね、島原藩の農民一揆だ、キリシタンの反乱だのという手に負えない内情を解決するがため松平伊豆守信綱に知恵を借りに直参していた。しかし、松平伊豆守信綱は江戸から離れた遠い九州で起こっている島原の窮状が、今後の江戸幕府の治世を成り立たせる為の布石として役に立つことを見越していたのだった。隠れキリシタンだ、豊臣の残党だという戦国の名残という残り火にシローという火種を投じて一気に燃やしつくし片付ける策略をめぐらせていたのだ。SHIROH フレッシュアイペディアより)

  • 御所浦島

    御所浦島から見た天草諸島天草諸島

    御所浦島(ごしょうらじま)は、天草諸島の島の一つである。八代海に面している。御所浦島 フレッシュアイペディアより)

  • 長島 (鹿児島県)

    長島 (鹿児島県)から見た天草諸島天草諸島

    長島は古くは仲島あるいは大仲島と呼ばれていた。4世紀頃には当時有明海から八代海にかけて勢力を保っていた肥君(火の君)一族の勢力下にあり、天草諸島の島々とともに天草国(後の肥後国天草郡)の一部となっていた。778年(宝亀9年)11月13日に遣唐使の船が漂着し、このことに因んだ唐隈という地名が残されている。戦国時代には相良氏の勢力下にあったが、1565年(永禄8年)から1581年(天正9年)にかけて起こされた幾度かの侵攻を受けて島津氏の勢力下に加えられた。江戸時代には大嶽野牧場苑や国見野牧場苑などの牧場があり馬の放牧が盛んであった。1889年(明治22年)の町村制施行に伴って東長島村(後の東町)と西長島村(後の長島町)に分割されたが2006年(平成18年)に長島町へ統合されている。長島 (鹿児島県) フレッシュアイペディアより)

  • 下浦町

    下浦町から見た天草諸島天草諸島

    下浦町(しもうらまち)は、熊本県天草市の町である。旧称は下浦村。下浦町 フレッシュアイペディアより)

  • 藤原行正

    藤原行正から見た天草諸島天草諸島

    旧関東州大連出身。6人兄弟の次男。戦後、熊本県天草に引揚げのあと1948年(昭和23年)上京。1949年(昭和24年)創価学会に入会し、当時会長だった戸田城聖と知り合う。藤原行正 フレッシュアイペディアより)

  • オナジマイマイ

    オナジマイマイから見た天草諸島天草諸島

    殻高16mm・殻径29mmほど。オナジマイマイに似るが大型で、周縁に弱い角があり、臍孔が広く開く。和名の「パンダナ」はアダン(タコノキ科の常緑高木)のことである。奄美群島・沖縄諸島・大東諸島に分布するが、天草諸島・片島(牛深沖の無人島)での記録もある。オナジマイマイ フレッシュアイペディアより)

  • アマクサシダ

    アマクサシダから見た天草島天草諸島

    和名は天草羊歯であり、熊本県天草島産の由である。中国語では「半片旗」と言い、これは側羽片の裂片が左右不対照であるという本種の特徴に基づく。ちなみに学名の種小名は「釣り合いの取れない」の意である由。アマクサシダ フレッシュアイペディアより)

  • 島津忠兼 (薩州家)

    島津忠兼 (薩州家)から見た天草諸島天草諸島

    永禄8年3月24日(1565年4月24日)、6代当主・島津義虎(実久の子)の命を受け、家臣の吉満久張らとともに肥後国天草の長島(現・鹿児島県出水郡長島町)へ出兵。堂崎城主・天草越前守を打ち破って長島・獅子島の両島を攻め取り、薩摩国の領有とした(天草諸島のうち、長島・獅子島および近接する島々は、以降、現在に至るまで鹿児島県の所属となっている)。島津忠兼 (薩州家) フレッシュアイペディアより)

  • 富岡藩

    富岡藩から見た天草諸島天草諸島

    同年、備中国成羽藩より外様大名の山崎家治が1万石加増の4万2千石で入封し富岡藩が成立した。家治は成羽藩での新田開発などの能力を買われ、乱で荒廃した天草の立て直しを任された。再建も一段落した寛永18年(1641年)さらに1万石を加増され讃岐国丸亀藩に移封となった。富岡藩 フレッシュアイペディアより)

  • 天草県

    天草県から見た天草諸島天草諸島

    江戸時代、幕府領であった天草諸島は長崎奉行の管轄下に置かれていた。長崎奉行の後身である長崎裁判所から分立する形で富岡県が設置され、2ヶ月後に天草県に改称されたが、わずか4ヶ月で長崎裁判所の後身である長崎府に編入され廃止された。天草県 フレッシュアイペディアより)

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