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天草諸島から見たコスメ・デ・トーレス
永禄9年(1566年)、修道士ルイス・デ・アルメイダが志岐氏当主の志岐鎮経(麟泉)(下島・志岐城主)に招かれ、キリスト教がもたらされた。志岐には教会が建てられ、トルレス、ヴィレラ、オルガンチノらの宣教師も来島し、永禄11年(1568年)と元亀元年(1570年)には宗教会議も行われた。信仰は広まり、信者は1万5000人、教会堂は30あまりにも達したという。(天草諸島 フレッシュアイペディアより)
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天草諸島から見た薩摩国
戦国時代頃になると天草は、下島北部を領する志岐氏、中部の河内浦氏(後に天草氏に復姓)と宮地氏、南部の久玉氏、上島北部の上津浦氏、南部の栖本氏、大矢野島の大矢野氏、長島の長島氏の8氏が鎬を削る形となっていたが、やがて天草尚種が現れると、宮地氏と久玉氏は天草領に併呑され歴史からその名を消した。天文元年(1532年)、上津浦治種が、天草尚種、志岐重経、長島但馬守、栖本氏、大矢野氏の連合軍に攻められる事態が起こる。治種は八代・葦北・球磨の三郡を領する相良義滋に協力を打診、義滋がこれに支援したことで治種は大勝した。この一件以降、相良氏は天草鎮護の為に八代・葦北・球磨の兵1,000を半年交代で天草へ置くようになったが、肥前国有馬氏の介入もあり、天草内部の争乱は止む事が無かった。また、天文23年(1554年)、長島氏当主の長島鎮真が、義滋の後を継いだ相良晴広により長島を追われて薩摩国出水へ逃れた。残る天草氏・志岐氏・上津浦氏・栖本氏・大矢野氏らは、世に天草五人衆と称される。(天草諸島 フレッシュアイペディアより)
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天草諸島から見た熊本市
海に囲まれた天草も九州本土と陸路で結ばれる一方で、2005年(平成17年)5月に大道港 - 佐敷航路、2006年(平成18年)8月に牛深 - 水俣航路、2007年(平成19年)5月に本渡 - 水俣航路が廃止され、同年10月に松島 - 八代航路(天草フェリーラインにより運航)、2008年(平成20年)5月に御所浦港- 米ノ津港航路、2009年(平成21年)3月には熊本フェリー(株)が運行していた本渡港(下島) - 熊本港(熊本市)を約65分で結ぶ高速旅客船「マリンビュー」 が運航休止されるなど、海上航路は次々と数を減らしている。松島 - 八代航路は2009年4月に天草フェリーライン有限会社と松島フェリー株式会社の共同運航便として運航を再開したが、利用客の低迷により松島フェリーが経営破綻のため松島フェリー便が2011年(平成22年)11月27日より運航を無期限休止し、運航を再開することなく同年12月20日付で航路廃止となった。残った天草フェリーライン便も2013年(平成25年)3月31日の運航をもって再び無期限休止となり、天草 - 八代航路は全て消滅した。(天草諸島 フレッシュアイペディアより)
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天草諸島から見た鎌倉時代
鎌倉時代に入ると、幕府により天草種有が本砥(本渡の旧名)の地頭職に任じられている。但し、天草全体を支配下に置いていた訳では無く、大矢野島には大矢野氏、天草下島北部にはその地頭志岐氏らが在った。14世紀になると、天草氏の所領は尼の妙性が守っていた。妙性は応長元年(1311年)に自らの子供らに領地を分け与えたものの、正和2年(1313年)、志岐氏当主の志岐景弘は妙性が自身の継母であるのを利用して、本砥の地頭職を幕府に願い出てこれを許される。こうして天草氏の嫡流は地頭職より途絶するに至った。弘安4年(1281年)、元寇が襲来した際は、大矢野氏の大矢野種保・種村兄弟が元寇迎撃に出陣している。(天草諸島 フレッシュアイペディアより)