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天草諸島から見た肥前有馬氏
戦国時代頃になると天草は、下島北部を領する志岐氏、中部の河内浦氏(後に天草氏に復姓)と宮地氏、南部の久玉氏、上島北部の上津浦氏、南部の栖本氏、大矢野島の大矢野氏、長島の長島氏の8氏が鎬を削る形となっていたが、やがて天草尚種が現れると、宮地氏と久玉氏は天草領に併呑され歴史からその名を消した。天文元年(1532年)、上津浦治種が、天草尚種、志岐重経、長島但馬守、栖本氏、大矢野氏の連合軍に攻められる事態が起こる。治種は八代・葦北・球磨の三郡を領する相良義滋に協力を打診、義滋がこれに支援したことで治種は大勝した。この一件以降、相良氏は天草鎮護の為に八代・葦北・球磨の兵1,000を半年交代で天草へ置くようになったが、肥前国有馬氏の介入もあり、天草内部の争乱は止む事が無かった。また、天文23年(1554年)、長島氏当主の長島鎮真が、義滋の後を継いだ相良晴広により長島を追われて薩摩国出水へ逃れた。残る天草氏・志岐氏・上津浦氏・栖本氏・大矢野氏らは、世に天草五人衆と称される。(天草諸島 フレッシュアイペディアより)
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天草諸島から見た豊臣政権
豊臣秀吉が九州平定を成し遂げると、豊臣政権の下で天草五人衆は佐々成政の与力とされたが、肥後国人一揆により成政が失脚、代わって肥後南半国の領主としてキリシタン大名の小西行長が下向するとその与力とされた。しかし天正17年(1589年)、五人衆は行長の宇土城普請の命に背いて反乱に及んだ末に敗れて降伏、逃走した志岐氏を除く4氏が行長の家臣に組み入れられた。その後、行長は志岐にキリシタンの家臣日比屋了荷(受洗名はヴィセンテ。ヴィンセンゾとも)を置いた。天草のキリシタンは行長の庇護を受けることになったのである。また、乱の翌年には上津浦氏もキリスト教に受洗している。(天草諸島 フレッシュアイペディアより)
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天草諸島から見たキリシタン大名
豊臣秀吉が九州平定を成し遂げると、豊臣政権の下で天草五人衆は佐々成政の与力とされたが、肥後国人一揆により成政が失脚、代わって肥後南半国の領主としてキリシタン大名の小西行長が下向するとその与力とされた。しかし天正17年(1589年)、五人衆は行長の宇土城普請の命に背いて反乱に及んだ末に敗れて降伏、逃走した志岐氏を除く4氏が行長の家臣に組み入れられた。その後、行長は志岐にキリシタンの家臣日比屋了荷(受洗名はヴィセンテ。ヴィンセンゾとも)を置いた。天草のキリシタンは行長の庇護を受けることになったのである。また、乱の翌年には上津浦氏もキリスト教に受洗している。(天草諸島 フレッシュアイペディアより)