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石山寺から見た吉野
『石山寺縁起絵巻』によれば、聖武天皇の発願により、天平19年(747年)、良弁(東大寺開山・別当)が聖徳太子の念持仏であった如意輪観音をこの地に祀ったのがはじまりとされている。聖武天皇は東大寺大仏の造立にあたり、像の表面に鍍金(金メッキ)を施すために大量の黄金を必要としていた。そこで良弁に命じて、黄金が得られるよう、吉野の金峰山に祈らせた。金峯山はその名の通り、「金の山」と信じられていたようである。そうしたところ、良弁の夢に吉野の金剛蔵王(蔵王権現)が現われ、こう告げた。「金峯山の黄金は、(56億7千万年後に)弥勒菩薩がこの世に現われた時に地を黄金で覆うために用いるものである(だから大仏鍍金のために使うことはできない)。近江国志賀郡の湖水の南に観音菩薩の現われたまう土地がある。そこへ行って祈るがよい」。夢のお告げにしたがって石山の地を訪れた良弁は、比良明神(≒白鬚明神)の化身である老人に導かれ、巨大な岩の上に聖徳太子念持仏の6寸の金銅如意輪観音像を安置し、草庵を建てた。そして程なく(実際にはその2年後に)陸奥国から黄金が産出され、元号を天平勝宝と改めた。こうして良弁の修法は霊験あらたかなること立証できたわけだが、如意輪観音像がどうしたことか岩山から離れなくなってしまった。やむなく、如意輪観音像を覆うように堂を建てたのが石山寺の草創という。(その他資料としては『元亨釈書』 や、後代だが宝永2年(1705年)の白鬚大明神縁起絵巻がある。)(石山寺 フレッシュアイペディアより)
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小倉宮から見た吉野
足利義満がまとめた南北朝合一のさい、南朝の後亀山天皇の子である恒敦を後小松天皇の皇太子とする約束であったが、南朝系の天皇誕生を嫌う後小松天皇の思惑により、応永19年(1412年)8月、称光天皇が践祚する。それより以前にこの動きを察知していた後亀山上皇と恒敦は、応永17年(1410年)吉野に経済的困窮を理由として逃亡するが、本当は後小松天皇をはじめとする北朝側を牽制する目的があったのではないかとされる。しかし、この行動は結局何の意味もなさず、応永23年(1416年)に後亀山上皇は室町幕府の要請で京に帰還する。が、このときに恒敦は父に同行しておらず、この後も吉野でさらに抵抗を続けたと言われる。その後、恒敦は応永29年(1422年)7月15日に父に先立って亡くなる。(小倉宮 フレッシュアイペディアより)