245件中 91 - 100件表示
  • 石津の戦い

    石津の戦いから見た吉野吉野

    延元元年/建武3年(1336年)暮れに、足利尊氏に対抗するために京都を脱出して吉野に逃れた後醍醐天皇は、陸奥国多賀城にいる北畠顕家に対して義良親王(後の後村上天皇)を奉じて上洛して尊氏を討つ様に命じた。だが、顕家に反抗する北朝方の領主に攻められて南陸奥の南朝方拠点である霊山城に追われ、ようやく北朝方の抵抗を排して6万騎を率いて霊山城より南下を開始したのは翌年の7月であった。だが、騎馬隊を巧に用いた戦略が功を奏し、その年の12月25日(1338年1月16日)には、斯波家長を攻め滅ぼして鎌倉を占領した。その後も快進撃は続き、延元3年/暦応元年に入ると箱根を突破して美濃国青野原の戦いで北朝方を破った。石津の戦い フレッシュアイペディアより)

  • 蘇我果安

    蘇我果安から見た吉野吉野

    同年10月17日、重病の天智天皇は大海人皇子(後の天武天皇)を大殿に呼び入れた。大海人皇子は、皇后を次の天皇にたて、大友皇子を皇太子にするよう進言し、あわせて自らの出家を申し出た(天智天皇に疑われていることを悟り、謀反の疑いを解きつつ京から離れたものと考えられる)。2日後、僧の服を着て吉野に向かう大海人皇子を、果安は蘇我赤兄や中臣金とともに莬道(宇治)まで見送った。蘇我果安 フレッシュアイペディアより)

  • 後南朝

    後南朝から見た吉野吉野

    1414年(応永21年)、4年前に京都を出奔して吉野に潜行していた南朝最後の天皇後亀山上皇とその皇子小倉宮を支持して伊勢国司の北畠満雅が挙兵したが、室町幕府の討伐を受け和解、上皇は2年後に京に帰った。後南朝 フレッシュアイペディアより)

  • 桜雲記

    桜雲記から見た吉野吉野

    桜雲記(おううんき)は、南北朝時代における南朝の盛衰とその後胤(後南朝)を扱った史書・軍記。江戸時代前期の成立で、作者は書物奉行浅羽成儀と推測されている。書名は、南朝の舞台が吉野であることからして、雲かと見紛うばかりに咲き誇る吉野の桜花の叙景を念頭に置いて付けられたものと考えられる。桜雲記 フレッシュアイペディアより)

  • 洞院実夏

    洞院実夏から見た吉野吉野

    足利尊氏が光明天皇を擁立して後醍醐天皇が吉野に逃れた際に、実夏は父とともに新帝に仕えるが、嫡男である兄の洞院実世が南朝に参加したために廃嫡となり、次男の実夏が洞院家を継承する事になった。1337年、父が右大臣を辞任すると参議に昇進し、その年のうちに従三位となって公卿に列した。洞院実夏 フレッシュアイペディアより)

  • 世尊寺 (大淀町)

    世尊寺 (大淀町)から見た吉野吉野

    奈良時代には、吉野寺比曽山寺と呼ばれ、後述する現光寺の由来となった仏像が安置された。また著名な僧侶、神叡(しんえい)が住み、20年間三蔵を学んで自然智を得たという。平安時代には宇多上皇や藤原道長などが吉野への参詣の途中に訪れ、大いに栄えたが、その後は衰退した。世尊寺 (大淀町) フレッシュアイペディアより)

  • 胡麻豆腐

    胡麻豆腐から見た吉野吉野

    デパート、スーパー、吉野地方・高野山などの土産物店、道の駅などで販売されている。また宿坊を備えた禅寺などの食事では、必ずと言ってもよいほど供される定番の品目である。胡麻豆腐 フレッシュアイペディアより)

  • 霧山城

    霧山城から見た吉野吉野

    多気は伊勢国と大和国を結ぶ初瀬街道沿いにある交通の要所であると同時に、7つの経路のどれをとっても峠越えとなる天然の要害であった。城郭本体だけでなく、麓の城下町まで含めて、大要塞を成していたとも解釈できる。城下には3,500戸ほどが建ち並び、700人から1,000人の家臣が暮らしていた多気から南西へ16里行けば南朝の拠点である吉野へ、南東へ12里行けば伊勢神宮へ至ることから、どちらで非常事態が発生しても1日で駆け付けることができた。南朝へ米や海産物を運び込む上でも好都合であった。また北朝の都・京都に比較的近いことも利点の1つであった。霧山城 フレッシュアイペディアより)

  • 金峯山寺

    金峯山寺から見た吉野吉野

    修験道は中世末期以降、「本山派」と「当山派」の2つに大きく分かれた。本山派は天台宗系で、園城寺(三井寺)の円珍を開祖とする。この派は主に熊野で活動し、総本山は天台宗寺門派(園城寺傘下)の聖護院(京都市左京区)である。一方の当山派は真言宗系で、聖宝を開祖とする。吉野を主な活動地とし、総本山は醍醐寺三宝院(京都市伏見区)であった。金峯山寺は中興の祖である聖宝との関係で、当山派との繋がりが強かった。中世の金峯山寺は山上・山下に多くの子院をもち、多くの僧兵(吉野大衆と呼ばれた)を抱え、その勢力は南都北嶺(興福寺と延暦寺の僧兵を指す)にも劣らないといわれた。南北朝時代、後醍醐天皇が吉野に移り、南朝を興したのにも、こうした軍事的背景があった。金峯山寺 フレッシュアイペディアより)

  • 久米寺

    久米寺から見た吉野吉野

    久米仙人による開基伝承は『扶桑略記』『七大寺巡礼私記』などのほか、『今昔物語集』巻十二本朝仏法部にも収録され、『徒然草』にも言及されている著名な話である。それによると、吉野・龍門寺の久米仙人は仙術で空を飛べるようになったが、ある日空を飛んでいる時、川で洗濯をしている女のふくらはぎに見とれて法力を失い、地上に落ちてしまった。久米仙人はその女とめでたく結婚。その後は普通の俗人として暮らしていた。その後、時の天皇が遷都を行うことになり、俗人に戻った久米仙人は遷都のための工事に携わる労働者として雇われ、材木を運んだりしていた。ある日仕事仲間から「お前も仙人なら、仙術を使って材木など一気に運んでしまったらどうだ」とからかわれた。一念発起した久米仙人は7日7晩祈り続けた後、仙力を回復。久米仙人の仙術で、山にあった材木が次々と空へ飛び上がり、新都へと飛んで行った。これを喜んだ天皇は久米仙人に免田30町を与え、これによって建てたのが久米寺であるという話である。久米寺 フレッシュアイペディアより)

245件中 91 - 100件表示

「奈良南部のできごと」のニューストピックワード