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  • 南山巡狩録

    南山巡狩録から見た吉野吉野

    南山巡狩録(なんざんじゅんしゅろく)は、南朝の事績を中心とした編年体の史書。編者は大草公弼で、文化6年(1809年)8月の成立。書名の「巡狩」は天子が地方を巡視する意味だが、自序に「車駕南二狩于吉野一、造二行宮一置二百官一、是為二南朝一」とあり、直接的にはここから導かれた語であると推察される。南山巡狩録 フレッシュアイペディアより)

  • 万里小路宣房

    万里小路宣房から見た吉野吉野

    鎌倉幕府滅亡後の建武の新政下では、従一位に叙せられて雑訴決断所の頭人を務める。しかし、新政への批判が強まると、その責を問われて、建武3年(1336年)1月に千種忠顕とともに出家。後醍醐天皇に従って吉野に赴くこともなく、次男・季房の遺児仲房も京都に残ったため、それまで大覚寺統の重鎮であった万里小路家は以後持明院統(北朝)方について活動することになった。万里小路宣房 フレッシュアイペディアより)

  • 吉野行宮

    吉野行宮から見た吉野吉野

    延元元年/建武3年(1336年)の暮、足利尊氏の京都占領によって建武政権が崩壊(建武の乱)し、幽閉されていた後醍醐天皇が京都を脱出して穴生(賀名生)を経由して吉野吉水院に入り、数日後に近くの金峯山寺の塔頭・実城寺を「金輪王寺」と改名して行宮と定めた。これが吉野行宮である。吉野行宮 フレッシュアイペディアより)

  • 蔵王山神社

    蔵王山神社から見た吉野吉野

    680年(天武天皇9年)、奥羽山脈の宮城県側の不忘山に「権現社」が建立され、690年(持統天皇4年)に、役小角という行者が吉野の金峯山寺から金剛蔵王大権現を勧請して、宮城県側の刈田岳山頂に祀った(「蔵王大権現社」。後の刈田嶺神社(奥宮)および刈田嶺神社(里宮))。これ以降、修験道の修行の場となった当地の奥羽山脈は「蔵王山」と呼ばれるようになった。蔵王山神社 フレッシュアイペディアより)

  • ショウ王

    ショウ王から見た吉野吉野

    元弘3年/正慶2年(1333年)5月無位無官から従三位に直叙されて公卿に列し、同年6月弾正尹に任じられ、8月治部卿を兼任する。建武元年(1334年)12月散位に移るが、同2年(1335年)1月正三位に昇叙された。『太平記』によると、中先代の乱の後に鎌倉の足利尊氏を討伐するため、同年11月に派遣された東征軍のうち搦手の副将として、大智院宮・洞院実世らとともに東山道を下ったが、12月に新田義貞率いる東海道軍の敗戦(箱根・竹ノ下の戦い)を受けて引き返し、翌建武3年(1336年)1月後醍醐天皇の避難していた近江東坂本に到着した。同年8月には、美濃の関・迫・北野(岐阜県関市・岐阜市)において足利方の鷲見忠保や東常顕らと交戦するも、翌月に本拠の八代城(岐阜市)が陥落して敗退している。後醍醐の吉野潜幸の際、これに同行したらしく、延元3年/建武5年(1338年)6月に出家、同地で薨去した。ショウ王 フレッシュアイペディアより)

  • 五条頼元

    五条頼元から見た吉野吉野

    建武3年(1336年)に新政が終止符を打たれると、そのまま北朝の光厳上皇方にとどまり、文殿の職員となっている。しかし、建武5年(1338年)9月には、懐良親王に少納言の官職で随行して吉野を発しており、この間に南朝方に転向したと推測される。五条頼元 フレッシュアイペディアより)

  • 丹生川上神社

    丹生川上神社から見た吉野吉野

    社伝に因れば、鎮座地は神武天皇が天神の教示によって天神地祇を祀り、戦勝を占った地であり、白鳳4年(675年)に罔象女神を御手濯(みたらし)川(高見川)南岸の現摂社丹生神社の地に奉斎し、その後現在地に遷座したものと伝えるが、寛平7年(895年)の太政官符(『類聚三代格』所収)には、当時の丹生川上神社の祝や禰宜の解を引き、『名神本紀』という書に「『人声の聞こえない深山で我を祀れば、天下のために甘雨を降らし霖雨を止めよう』との神託により創祀した」との伝えがあることを記してる。吉田兼倶撰といわれる『二十二社注式』には、天武天皇の白鳳乙亥年(4年)に垂迹し、大和神社の別宮になったと記されているので、吉野と浅からぬ関係にあった同天皇によって創祀されたものとされている。古来大和神社(天理市鎮座)の別社とされ、祈止雨の霊験著しい雨師神として、朝廷から重んじられ、宝亀4年 (773年)には神戸4烟が充てられている(『続日本紀』)。律令制時代を通じて祈雨神祭祭神に預かり、祈止雨祈願のために貴布禰社とともに奉幣がなされた例は枚挙に遑がないが、その折には奉幣使に大和神社の神主が従う定めとされていた。『延喜式神名帳』では官幣大社(名神大社)に列格し、律令制の弛緩に際しても、二十二社の1社にもなるなど朝廷からの厚い崇敬は変わらなかったが、次第に奉幣も減少するなど衰微していき、応仁の乱以降は、ついにその所在すら不明となるに至った。なお、社伝では中世以降たびたび造改築されたことが伝えられており、当神社所蔵の慶安3年(1650年)の造営の上梁文には、当初の鎮座地に丹生神社を新造するとともに、本社を金剛峯寺の鎮守神に倣って「蟻通明神」と改称した旨が記されている。丹生川上神社 フレッシュアイペディアより)

  • 坊門親忠

    坊門親忠から見た吉野吉野

    父とともに吉野入りして早くから南朝に仕えたが、具体的な官歴は不明である。初めは綸旨の奉者として史料に散見され、延元2年/建武4年(1337年)には侍従、延元4年/暦応2年(1339年)には少納言、興国元年/暦応3年(1340年)には蔵人・右少弁、興国2年/暦応4年(1341年)から翌年にかけては左少弁、興国3年/康永元年(1342年)には右中弁、興国5年/康永3年(1344年)から翌々年にかけては大蔵卿の署判を残した。更に歌人として、興国5年/康永3年(1344年)と正平11年/延文元年(1356年)3月に催された内裏歌会に詠進している。『南朝公卿補任』には、正平14年(1359年)8月に従二位前権中納言民部卿で薨じたと見えるが、その後も存命したことを示す史料がある。例えば、正平20年/貞治4年(1365年)の『内裏三百六十首歌』に詠進している「坊門大納言」(権官か)とは親忠のことと考えられ、また『五条家文書』の中には、正平24年/応安2年(1369年)4月五条良遠の許へ届けられたと考えられる「坊門大納言親忠卿」書状の追書があり、それによると、親忠はある人物(不詳)の去就について良遠から内々に示してくれるように望んでいる。親忠が薨去したのは、それからさほど下らない時期であろう。和歌は、『新葉和歌集』に2首が入集する。坊門親忠 フレッシュアイペディアより)

  • 和州吉野郡群山記

    和州吉野郡群山記から見た吉野吉野

    和州吉野郡群山記(わしゅうよしのぐんぐんざんき、以下、群山記と略記する)は、江戸時代後期紀州藩の本草学者・博物学者、源伴存が著した地誌・博物誌。全8巻構成で、最後の2巻は特に和州吉野郡物産志と題されている。ここで言う物産とは人工の産物のことではなく、動植物や鉱物など吉野山中の自然に産するものを指し、したがって吉野の自然の博物誌となっている。和州吉野郡群山記 フレッシュアイペディアより)

  • 県犬養大伴

    県犬養大伴から見た吉野吉野

    県犬養大伴は、壬申の乱が起こったとき、大海人皇子の舎人であった。大海人皇子が挙兵のため吉野から東国に出立したときに、皇子に従った二十数人の男の一人であった。『日本書紀』によれば、6月24日の出発のとき、大海人皇子は馬がなく徒歩で出発した。たまたま途中で県犬養連大伴の馬に遭遇し、それに乗った。妃の鸕野讚良皇女(後の持統天皇)は輿に乗った。津振川で皇子の馬が追いつき、皇子はこれに乗りかえた。津振川は吉野川(紀の川)支流の津風呂川とされる。県犬養大伴 フレッシュアイペディアより)

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