-
備崎経塚から見た吉野
大谷女子大学による成果を踏まえた山本義孝は、備崎経塚を修験道の信仰遺跡の一部として位置づけるべきことを主張し、発掘成果をより広い見地から評価することを試みた。時枝務はこうした山本の問題提起を受けて、備崎の位置、すなわち、大峯山脈を貫いて吉野・熊野を結ぶ奥駈道の一方の端にあるという点から、金峯山経塚と対になる結界としての役割を持つものと指摘した。さらに時枝は、備崎経塚と金峯山経塚の造営時期の前後関係から、修験道における信仰の成立史への示唆を示した。山本義孝は、こうした研究を念頭に置きつつ、修験道における「宿」の一部として備崎経塚を位置づけなおし、峯中路における宿および磐座祭祀の遺跡および聖域の境界としての性格を明らかにするだけでなく、中世の熊野参詣道上に設けられた九十九王子のひとつ滝尻王子に対しても、備崎と同じ聖域の境界としての性格を指摘した。(備崎経塚 フレッシュアイペディアより)
-
近衛経忠から見た吉野
もともと経忠の祖父・家基には二人の子がおり、一人は鷹司家出身の妾が生んだ長男の家平(経忠の父)で、もう一人は亀山天皇の皇女が生んだ次男経平であった。家基の没後、二人はどちらが近衛家の嫡流かを巡って対立し、その争いはそれぞれの息子の代に受け継がれ、経忠は経平の子・基嗣と激しく争っていた。特に基嗣は後醍醐天皇の皇女を妻にしており、強力な対立相手のはずであった。だが、経忠は建武政権下において再び天皇から重用され、建武元年(1334年)2月右大臣・藤氏長者に復し、同2年(1335年)11月左大臣へと昇進する。延元元年(1336年)8月足利尊氏の入京に伴って持明院統の光明天皇が擁立された際には、再び関白宣下を受けた。しかし、後醍醐が京都を脱して吉野に潜幸すると、天皇への旧恩から吉野朝廷(南朝)への参仕を決意。職を辞するも、当然認められなかった。(近衛経忠 フレッシュアイペディアより)
-
日光神社から見た吉野
紀伊山地には高野山、熊野三山、吉野・大峯の3つの霊場があり、各地からそれぞれの霊場に至る、あるいは3つの霊場の間をつなぐ参詣道がある。日光山は、紀州各地からこれら3つの霊場を目指す際の最短ルート上にある要地であった。古老の伝承によれば、鹿ヶ瀬峠以南の紀南地方各地からは、各地域の河川を遡上して龍神を目指し、ついで日光山を経由して吉野・大峯または高野山を目指したといい、紀南各地の河川上流部と龍神をつなぐ道を「奥辺路」と称した。紀中・紀北からは、日光山またはその山麓をまず目指し、ついで伯母子岳から小辺路に入って熊野本宮へ向かう、あるいは城ヶ森山(じょうがもりやま)から中辺路に入って熊野本宮へ向かう、という道程がとられたという。(日光神社 フレッシュアイペディアより)