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  • 延元の乱

    延元の乱から見た吉野吉野

    光厳上皇は足利尊氏入京の翌日である延元元年6月15日に、治天の君の権限をもって先の延元改元を無効として元号を建武に戻した(なお、現存する光厳上皇の宸筆に「延元元年」の年号記載の文書が存在するが、いずれも6月15日以前のものである)。続いて、尊氏は光厳上皇の意向を受けて8月15日にその弟の豊仁親王を皇位に就けた(光明天皇)。だが、光明天皇には三種の神器が備わっていなかったため、比叡山の後醍醐天皇が所持している三種の神器を確保する必要があった。だが、新田軍などが比叡山を守り、却って京都奪還のための戦いが起こる有様であった。そこで尊氏は比叡山の後醍醐天皇に対して和議を申し入れた。後醍醐天皇は秘かに新田義貞に対して皇太子恒良親王とその弟の尊良親王を奉じて北国に下るように命じ、10月10日に京都へ戻った。京都に戻った後醍醐天皇は花山院に幽閉された上に、同年11月2日に光明天皇への神器譲与を強要され、「太上天皇」の尊号を贈られた。その直後の11月7日、尊氏は建武式目17条を定めて新たなる武家政権の基本方針を定め、続いて11月26日には足利尊氏は源頼朝と同じ権大納言に任じられた。尊氏は自らを「鎌倉殿」と称して鎌倉将軍の後継者であることを宣言、ここに室町幕府が実質的に成立した。ところが、天皇は同年12月21日に幽閉されていた花山院を脱出、2日後には大和国賀名生に入り、更に山中へ逃れた。更に12月28日には吉野吉水院を行宮に定め、豊仁親王に譲った三種の神器は偽物であり本物の神器は自らが吉野に持ってきた物であると称して独自の朝廷(南朝)を樹立するとともに、新田義貞や北畠顕家らに改めて尊氏討伐を命じた。延元の乱 フレッシュアイペディアより)

  • 古人大兄皇子

    古人大兄皇子から見た吉野吉野

    事件後、皇極天皇退位を受けて皇位に即く事を勧められたがそれを断り、出家して吉野へ隠退した。しかし、吉備笠垂から「古人大兄皇子が謀反を企てている」との密告を受け、645年9月12日(11月30日説もある)に中大兄皇子が攻め殺した。実際に謀反を企てていたかどうかは不明である。古人大兄皇子 フレッシュアイペディアより)

  • 宇都宮貞泰

    宇都宮貞泰から見た吉野吉野

    後醍醐天皇の第11皇子の懐良親王が征西大将軍に任命され、九州を目指して吉野を出立し、瀬戸内海の海賊衆である熊野水軍の援助を得て伊予忽那島(愛媛県松山市 - 旧北条市)へ渡った時、しばらく喜多の宇都宮貞泰の処に滞在。ということは、当初は幕府方(北朝)の貞泰は、この頃は宮方(南朝)に変わっていたことになる。宇都宮貞泰 フレッシュアイペディアより)

  • 花川町

    花川町から見た吉野吉野

    町名の由来は、町の南部の谷を流れる川、「花川」から。川名のとおり花川沿いにはたくさんの桜の木があるが、正確には、山の椎の木の白い花が咲いて散り、沢川に浮いていた様子に由来する。さらに、旧名須野木沢村(すのきざわむら)もまた、“椎の木沢”に由来するといわれている。現在も山中には、たくさんの椎の木が見られる。なお、旧名吉野町は上記の歴史から、大和朝廷があった後醍醐天皇ゆかりの地、吉野にちなんだものである。花川町 フレッシュアイペディアより)

  • 関戸峠

    関戸峠から見た吉野吉野

    宇陀市大宇陀栗野(南方)と大宇陀関戸(北方)との間にある高低差は100m程度の緩やかな峠道で、現在は国道370号が通る。全区間2車線道路。峠は北へ流れる宇陀川と南へ流れる津風呂川の分水嶺に位置する。口宇陀盆地と吉野とを結ぶ南北道となっている。関戸峠 フレッシュアイペディアより)

  • 近衛経忠

    近衛経忠から見た吉野吉野

    もともと経忠の祖父・家基には二人の子がおり、一人は鷹司家出身の妾が生んだ長男の家平(経忠の父)で、もう一人は亀山天皇の皇女が生んだ次男経平であった。家基の没後、二人はどちらが近衛家の嫡流かを巡って対立し、その争いはそれぞれの息子の代に受け継がれ、経忠は経平の子・基嗣と激しく争っていた。特に基嗣は後醍醐天皇の皇女を妻にしており、強力な対立相手のはずであった。だが、経忠は建武政権下において再び天皇から重用され、建武元年(1334年)2月右大臣・藤氏長者に復し、同2年(1335年)11月左大臣へと昇進する。延元元年/建武3年(1336年)8月足利尊氏の入京に伴って持明院統の光明天皇が擁立された際には、再び関白宣下を受けた。しかし、後醍醐が京都を脱して吉野に潜幸すると、天皇への旧恩から吉野朝廷(南朝)への参仕を決意。職を辞するも、当然認められなかった。近衛経忠 フレッシュアイペディアより)

  • 青野原の戦い

    青野原の戦いから見た吉野吉野

    1337年(延元2年/建武4年)8月、鎮守府将軍北畠顕家は、吉野の後醍醐天皇の足利尊氏追討の呼びかけに応じ、義良親王(後に後村上天皇)を奉じ、腹心結城宗広や伊達行朝ら奥州勢を率い、霊山(福島県相馬市および伊達市)を出発した。2度目の上洛戦である。青野原の戦い フレッシュアイペディアより)

  • 奈良弁

    奈良弁から見た吉野吉野

    奈良弁(ならべん)または大和弁(やまとべん)とは、奈良県(旧大和国)で話される日本語の方言で、近畿方言の一種である。県北中部の方言は京言葉や大阪弁に近いが、奥吉野は特異な方言を用いる言語島として有名である。奈良弁 フレッシュアイペディアより)

  • 吉田定房

    吉田定房から見た吉野吉野

    正中の変の際に後醍醐天皇の使者として鎌倉に下向して幕府に後醍醐天皇が無関係であると主張し、その後討幕のための密議を行う後醍醐天皇を諌めた。元徳2年(1330年)6月21日に後醍醐天皇から諸卿に対して意見を求められた際に定房は徳政の推進と倒幕を諌める意見書を提出した。醍醐寺三宝院に所蔵されていた文書の1つがその意見書(「吉田定房奏状」)の写しであると言われている。元弘元年/元徳3年(1331年)の元弘の乱では2度目の討幕の密議を六波羅探題に密告し、後醍醐天皇が隠岐に流された後に持明院統の後伏見上皇に請われて院評定衆に加わっているが、元弘3年/正慶2年(1333年)3月に各地で発生している討幕の動きを鎮めるために後醍醐天皇の京都帰還を求める意見書を幕府に対して提出していることや鎌倉幕府滅亡後の建武の新政においても後醍醐天皇に重用されている事などから、これは後醍醐天皇の身を案じた行動であると解釈されている。建武政権においては定房は内大臣や民部卿に任ぜられて恩賞方や雑訴決断所の頭人を任されるなど、要職を歴任した。だが、延元元年/建武3年(1336年)に建武政権は足利尊氏によって倒され、後醍醐天皇は同年暮れに吉野に逃れる。後醍醐天皇の吉野行きから半年余り後の延元2年/建武4年(1337年)7月、北朝では定房が吉野の南朝へ出奔したことを理由に民部卿を解官されているが、この間の経緯に関しては一旦北朝に仕えた後に南朝に出奔したとする考えと、後醍醐天皇の吉野行きに同行もしくは直後に天皇の後を追って吉野に向かったもので解官は定房が南朝に仕えて京都に戻る見込みが無い現状の追認に過ぎないとする考えがある。同年9月に後醍醐天皇が吉野行宮で開いた賞月歌会に定房が参加してその和歌が『新葉和歌集』に採録されている。だが、この歌会から4ヶ月後に吉野にて65歳の生涯を閉じた。後醍醐天皇がその死を悼んだ歌が『新葉和歌集』に採録されている。吉田定房 フレッシュアイペディアより)

  • 桜川 (茨城県南部)

    桜川 (茨城県南部)から見た吉野吉野

    世阿弥の謡曲「桜川」で有名である。磯部稲村神社を中心として、古くからの桜の名所であり「西の吉野と東の桜川」と並び称される。桜川 (茨城県南部) フレッシュアイペディアより)

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