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  • 嶽山城

    嶽山城から見た吉野吉野

    室町時代中期になると畠山氏にお家騒動が発生、畠山政長に家督や河内・紀伊・越中・山城の守護職を奪われた上に治伐の綸旨まで出され、朝敵にされた畠山義就が長禄4年(1460年)12月、籠城を開始する。ここに応仁の乱の前哨戦とも言える嶽山城の戦いが開始され、2年以上も細川勝元や政長を中心とする幕府軍を散々悩ませたが、寛正4年(1463年)4月15日、成身院光宣の計略によって嶽山城は陥落した。義就はひとまず高野山に逃れ、紀伊を経て最終的に吉野に落ち延びた。嶽山城 フレッシュアイペディアより)

  • 芳野三絶

    芳野三絶から見た吉野吉野

    芳野三絶(よしのさんぜつ)は、吉野山の桜と南朝への感傷を詠った漢詩のうち、代表的な3首の七言絶句をいう総称。芳野は吉野の雅称。芳野三絶 フレッシュアイペディアより)

  • 井氷鹿

    井氷鹿から見た吉野吉野

    『記』の記述には、神武天皇が東征のおり、熊野から吉野(大和)へ入り、贄持之子の次に出会った神とされ、光る井から出て来た上に、尾のある人(有尾人)であったとしている(『紀』では、「光りて尾あり」と記述されるのみ)。天皇がお前は誰かと問うと、「私は国津神で、名を井氷鹿」と答え、吉野首等(よしののおびとら)の祖なりと記される。井氷鹿 フレッシュアイペディアより)

  • 雲取越え

    雲取越えから見た吉野吉野

    そのほか注目すべきものとして、青岸渡寺の大峯奥駈行がある。青岸渡寺の大峯奥駈行は、1985年(昭和63年)に副住職の高木亮英の手により復興されて以来、一般参加者も含めて多くの人が参加して毎年行われている。青岸渡寺の大峯奥駈行は熊野から吉野を目指す順峯で、那智から本宮までをたどる春の峯入りにおいて、1日で雲取越えを越えている。また、2004年には、世界遺産登録を記念して、聖護院による大峯奥駈行全行程の140年ぶりの復興が実現した。聖護院の大峯奥駈行は吉野から熊野を目指す逆峯で、雲取越えは行の最終行程として歩かれた。2008年(平成20年)には、田辺市を中心とする郷土研究団体・紀南文化財研究会による田辺市内を中心とした熊野古道の調査が行われ、小雲取越えから本宮周辺の道で調査の進んでいなかった範囲に、世界遺産登録対象となっている箇所以外にも古道が比較的状態のよいまま現存していることが報告され、今後の調査が期待されている。雲取越え フレッシュアイペディアより)

  • 賀名生

    賀名生から見た吉野吉野

    もと「穴生」(あなふ)と書いたが、後村上天皇が行宮を吉野(吉野山)からこの地に移した際に、南朝による統一を願って叶名生(かなう)と改め、さらに1351年(正平6年、北朝の観応2年)、いったん統一が叶うと(正平一統)「賀名生」に改めたという。明治になって、読みを「かなう」から原音に近い「あのう」に戻した。賀名生 フレッシュアイペディアより)

  • 曾良旅日記

    曾良旅日記から見た吉野吉野

    吉野・高野山・熊野・和歌浦・須磨・明石などを巡遊して近畿一円の社寺・歌枕を記録し、5月2日に嵯峨落柿舎滞在中の芭蕉を訪ね、『猿蓑』編纂時の芭蕉や蕉門俳人の動静を伝える。曾良旅日記 フレッシュアイペディアより)

  • 百万 (能)

    百万 (能)から見た吉野吉野

    吉野の男(ワキ)が奈良西大寺近くで幼子(子方)を拾う。京都清凉寺釈迦堂で行われる嵯峨の大念仏に男が幼子を連れていくと、念仏を唱え舞い狂う狂女・百万(シテ)に会う。生き別れの我が子に会いたいがために狂ったのだと言う百万の舞いを見て、幼子は自分の母だと気づき男に話す。百万は夫に死なれ西大寺で子を失い諸国を巡った遍歴を歌と舞いで語り、子との再会を祈る。男は憐んで百万と幼子を引き合わせ、二人は再会を喜び一緒に奈良へと帰る。百万 (能) フレッシュアイペディアより)

  • 観世元雅

    観世元雅から見た吉野吉野

    元雅は世阿弥に劣らぬ名人であったが、そのキャリアは、実力に見合う華々しいものではなかった。というのも、世阿弥父子から独立した活動を見せていた音阿弥が、将軍足利義教の寵愛を一身に受けていたためである。音阿弥を偏愛する義教によって、永享元年に既に決まっていた仙洞御所での演能を中止させられるなど、世阿弥・元雅は露骨な圧迫を受けることとなる。元雅はその状況下でも志を失わずに活動を続けたとみられ、大和吉野の天河大弁財天社に奉納した尉面が現存している。しかし苦境から脱することが出来ず、その才能を十分に発揮できないまま、三十代の若さで巡業先の伊勢安濃津で急死した。観世元雅 フレッシュアイペディアより)

  • 北畠顕信

    北畠顕信から見た吉野吉野

    延元3年/暦応元年(1338年)兄の死後、鎮守府将軍に任命され、後醍醐天皇皇子の義良親王、宗良親王に供奉して父親房と共に陸奥国に赴こうとしたが、途中で暴風にあって頓挫し吉野に戻る。翌年、再び陸奥に向かい、国府多賀城の攻略を試みる。多賀城を一時占領するが、結局北朝方の反撃を受け失敗する。霊山城を拠点に、周辺豪族を糾合して活動する。北畠顕信 フレッシュアイペディアより)

  • 桜雲記

    桜雲記から見た吉野吉野

    桜雲記(おううんき)は、南北朝時代における南朝の盛衰とその後胤(後南朝)を扱った史書・軍記。江戸時代前期の成立で、作者は書物奉行浅羽成儀と推測されている。書名は、南朝の舞台が吉野であることからして、雲かと見紛うばかりに咲き誇る吉野の桜花の叙景を念頭に置いて付けられたものと考えられる。桜雲記 フレッシュアイペディアより)

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