245件中 71 - 80件表示
  • 安部氏

    安部氏から見た吉野吉野

    宗良親王は、1355年(文和4年/正平10年)に桔梗ヶ原の戦いで信濃守護小笠原長基に敗れ、1374年(文中3年/応安7年)に吉野へと去る。諏訪の盟主とも言うべき諏訪氏は、桔梗ヶ原の戦い以後は南朝と距離をおいたとされ、諏訪神党の各家も徐々に各地に散り、安部氏の祖も時期は不明ながら駿河の安部谷へと移住して安部を名乗った。安部氏 フレッシュアイペディアより)

  • 十津川大水害

    十津川大水害から見た吉野吉野

    秋雨前線が日本付近に停滞しているところへ、台風が南海上から接近、8月18日から19日にかけて和歌山県から奈良県南部の範囲に大雨をもたらした。台風は19日午前6時過ぎに高知県東部に上陸し、まっすぐ北上して四国地方及び中国地方を縦断、20日に日本海に抜けた。 和歌山県の記録によると、20日午前3時頃から西南風が強く吹き、711mbの低気圧に風速40mをともなって県下に襲来、雨は9月7日まで降り続いた。記録に残る和歌山県での最大雨量は20日に現田辺市元町で観測した日雨量901.7mm、時間最大雨量は169.6mm。奈良県吉野地方では19日の雨量は1,000mmを越え時間雨量は130mmと推定されている。十津川大水害 フレッシュアイペディアより)

  • 坊門親忠

    坊門親忠から見た吉野吉野

    父とともに吉野入りして早くから南朝に仕えたが、具体的な官歴は不明である。初めは綸旨の奉者として史料に散見され、延元2年/建武4年(1337年)には侍従、延元4年/暦応2年(1339年)には少納言、興国元年/暦応3年(1340年)には蔵人・右少弁、興国2年/暦応4年(1341年)から翌年にかけては左少弁、興国3年/康永元年(1342年)には右中弁、興国5年/康永3年(1344年)から翌々年にかけては大蔵卿の署判を残した。更に歌人として、興国5年/康永3年(1344年)と正平11年/延文元年(1356年)3月に催された内裏歌会に詠進している。『南朝公卿補任』によると、正平14年(1359年)8月に従二位前権中納言民部卿で薨じたとされるが、その後も存命したことを示す史料があり、例えば、正平20年/貞治4年(1365年)の『内裏三百六十首歌』に詠進している「坊門大納言」(権官か)とは親忠のことと考えられ、また『五条家文書』の中には、正平24年/応安2年(1369年)4月五条良遠の許へ届けられたと考えられる「坊門大納言親忠卿」書状の追書があり、それによると、親忠はある人物(不詳)の去就に関して良遠から内々に示してくれるように望んでいる。親忠が薨去したのは、それからさほど下らない時期であろう。和歌は、『新葉和歌集』に2首が入集する。坊門親忠 フレッシュアイペディアより)

  • 日野邦光

    日野邦光から見た吉野吉野

    枕崎市 - 吉野から下向した邦光が薩摩国鹿籠(枕崎)に滞在したとの伝承が残り、坊津一乗院を再興した成円は邦光の落胤であるともいう。日野邦光 フレッシュアイペディアより)

  • 吉野の盟約

    吉野の盟約から見た吉野吉野

    679年(白鳳8年)(=天武8年)5月5日に吉野へ行幸。草壁皇子ら皇族に彼を次期天皇とし、お互い助けて相争わない事を誓わせた。その皇族の一人、志貴皇子は天武天皇の兄・天智天皇の第7皇子であったが、この盟約が記録上初の登場であった。吉野の盟約 フレッシュアイペディアより)

  • 近江宮

    近江宮から見た吉野吉野

    671年に天智天皇が没すると、天皇の子の大友皇子(弘文天皇)が近江大津宮で跡を嗣いだとされる。日本書紀によれば、天智天皇より皇位継承するのは大海人皇子とされていたとあり、大海人皇子(後の天武天皇)は672年6月に吉野から東方へ脱出し、美濃国を拠点に軍兵を徴発した上で近江大津宮へ進軍し、同年7月、大友側に決戦を挑んだ。これが壬申の乱である。大友側は敗れ、勝った大海人皇子は皇位継承し天武天皇となり飛鳥に飛鳥浄御原宮を造営したため、近江大津宮は僅か5年余りしか使われなかった。近江宮 フレッシュアイペディアより)

  • 北陸朝廷

    北陸朝廷から見た吉野吉野

    湊川の戦い後、比叡山に逃れた後醍醐天皇は京に入った足利尊氏との間で和議の交渉を進めていた。これに危機感を抱いた新田義貞・脇屋義助は恒良親王・尊良親王を奉戴して1336年(南朝:延元元年、北朝:建武3年)10月に北陸へ落ちて行った。後醍醐天皇はこの時期に多くの皇子を下向させており、恒良・尊良の下向もこの計画のひとつである。『太平記』巻17には、恒良親王に皇位を譲ったとの記述がある(ただし、後醍醐天皇は尊氏との和議を成立させて比叡山を降り、後に京を脱出して吉野において南朝を開いたことで、皇位は無意味化される)。北陸朝廷 フレッシュアイペディアより)

  • 伊賀局 (篠塚重広の娘)

    伊賀局 (篠塚重広の娘)から見た吉野吉野

    はじめ阿野廉子に仕える。足利勢の高師直に襲われ廉子が吉野を落ちた時、従う者はわずか数人で、途中、吉野川にかかる橋が半ば絶たれ、渡ることができなかったが、伊賀局は怪力をもって巨木を折り、吉野川に架けて無事通過することができた。伊賀局 (篠塚重広の娘) フレッシュアイペディアより)

  • 村国男依

    村国男依から見た吉野吉野

    男依は舎人として大海人皇子に仕えたと考えられている。壬申の乱で大海人皇子が挙兵を決断したとき、男依は吉野にいた皇子のそばにいた。皇子自身が行動をおこす2日前、6月22日に、村国連男依は和珥部君手、身毛広と三人で美濃国に先行するよう命じられた。彼らの任務は、安八磨郡(安八郡)の湯沐令多品治に連絡し、まずこの郡を挙兵させることであった。彼らは無事にその任を果たし、美濃の兵3千が大海人皇子のために不破道を塞いだ。男依は駅馬でとって返し、26日に伊勢国朝明郡の郡家のそばで大海人皇子に成功を報じた。これにより近江京にいた大友皇子は東国との連絡を遮断され、東国の兵力は大海人皇子の手に帰すことになった。村国男依 フレッシュアイペディアより)

  • 蔵王権現

    蔵王権現から見た吉野吉野

    蔵王権現は、役小角(えんのおづぬ、7世紀頃の山岳修験行者)が、吉野の金峯山で修業中に示現したという伝承がある。釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩の三尊の合体したものとされ、今でも吉野山の蔵王堂には互いにほとんど同じ姿をした3体の蔵王権現像が並んで本尊として祀られている。蔵王権現 フレッシュアイペディアより)

245件中 71 - 80件表示

「奈良南部のできごと」のニューストピックワード