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説成親王から見た吉野
在京中の動静に関しても史料がないが、応永15年(1408年)吉野河上郷の在地勢力が上野宮に与同して背いたため、吉水院の惣郷によって鎮圧された旨が『吉水神社文書』に見える。これは、同年5月の足利義満薨去を受けて親王が起こした反幕行動の一端を示したもので、合一後の南朝皇胤による決起としては最も早い例となろう。ところが、同22年(1415年)伊勢国司北畠満雅による挙兵に際してはこれに同調せず、むしろ幕府との間に立って調停に動いていることから、必ずしも反幕姿勢を堅持していた訳ではないようである。応永30年(1423年)8月に子の聖淳が足利義持の計らいで相応院に入室した。これに対しては抵抗する気運もあったらしく、11月に上野宮青侍の中村某が斬首されている。師成親王による『新葉集』奥書からは、同32年(1425年)なお存命していたことが確認されるが、以後の消息は不明である。(説成親王 フレッシュアイペディアより)
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千野境子から見た吉野
論説委員になっても、現場記者と変わらぬ好奇心とフットワークの千野は、日本初の「大阪特派員」として2002年の赴任後、高野山、伊勢神宮、吉野など近畿各地を取材し、紀行を新聞に連載しつつ、大阪特派員らしいスクープも連発する。特筆はパナソニック創業者の松下幸之助の真の創業の地について。巷で創業の地は大阪市北区(現福島区)大開町とされていたが、実際はコリアタウンの旧猪飼野地区に近い「東成区玉津二丁目一番地」だったことを、郷土史研究家で古書店主の足代健二郎の協力で発表する。この年は幸之助生誕110年で、同年11月、この地に「松下幸之助 起業の地」顕彰碑が建てられ、東成区も地元の名所・旧跡として紹介するようになった。(千野境子 フレッシュアイペディアより)