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  • 坂上是則

    坂上是則から見た吉野吉野

    31番 朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪(『古今和歌集』冬332)坂上是則 フレッシュアイペディアより)

  • 坊門清忠

    坊門清忠から見た吉野吉野

    元弘3年/正慶2年(1333年)光厳天皇の廃位に伴って還任し、建武政権下の建武元年(1334年)には信濃権守・大蔵卿を兼ね、従二位に昇叙した他、雑訴決断所の二番衆(東海道担当)を務めている。『太平記』によると、建武2年(1335年)鎌倉の足利尊氏と京の新田義貞との抗争が表面化し、互いに相手方討伐の綸旨を要求すると、清忠は結論を控えつつも義貞の言い分に理があると主張し、翌延元元年/建武3年(1336年)5月九州から東上した尊氏を迎え討つ際に、楠木正成が天皇の比叡山臨幸を献策したことに対し、清忠は「義貞が一戦も交えぬまま、帝が年に二度も京を捨てるとは、帝位を軽んじ、官軍の面目を失わせるもの」との大義名分論を振りかざして反対したという。その結果、正成は湊川の戦いで戦死し、後醍醐は比叡山遷幸を余儀なくされたため、後世、正成(楠公)崇拝の気風が高まる中では、清忠は忠臣楠公を死地に追いやった佞臣として筆誅が加えられることになった。尊氏の京都奪回に伴い、12月に後醍醐は吉野に潜幸して南朝(吉野朝廷)を樹立したが、延元2年/建武4年(1337年)3月頃に清忠はこれを追って吉野入りし、南朝政権の一角を占めたようである。1年を経た延元3年/建武5年(1338年)3月21日に薨去した。享年56という。坊門清忠 フレッシュアイペディアより)

  • 立川流 (密教)

    立川流 (密教)から見た吉野吉野

    これに対し、真言宗の本流をもって任ずる高野山の僧らは文観を危険視し、1335年(建武2年)に大規模な弾圧を加えた。立川流の僧の多くが殺害され、書物は灰燼に帰した。一長者の地位を剥奪された文観は、京都から放逐され甲斐国へ送られた。その後も文観は、吉野で南朝を開いた後醍醐天皇に付き従い、親政の復活を期して陰で動いた。立川流 (密教) フレッシュアイペディアより)

  • 丸山顕徳

    丸山顕徳から見た吉野吉野

    吉野民間説話調査報告』(名古屋大学国際開発研究科)丸山顕徳 フレッシュアイペディアより)

  • ショウ王

    ショウ王から見た吉野吉野

    元弘3年/正慶2年(1333年)5月無位無官から従三位に直叙されて公卿に列し、同年6月弾正尹に任じられ、8月治部卿を兼任する。建武元年(1334年)12月散位に移るが、同2年(1335年)1月正三位に昇叙された。『太平記』によると、中先代の乱の後に鎌倉の足利尊氏を討伐するため、同年11月に派遣された東征軍のうち搦手の副将として、大智院宮・洞院実世らとともに東山道を下ったが、12月に新田義貞率いる東海道軍の敗戦(箱根・竹ノ下の戦い)を受けて引き返し、翌建武3年(1336年)1月後醍醐天皇の避難していた近江東坂本に到着した。同年8月には、美濃の関・迫・北野(岐阜県関市・岐阜市)において足利方の鷲見忠保や東常顕らと交戦するも、翌月に本拠の八代城(岐阜市)が陥落して敗退している。後醍醐の吉野潜幸の際、これに同行したらしく、延元3年/建武5年(1338年)6月に出家、同地で薨去した。ショウ王 フレッシュアイペディアより)

  • 蘇我安麻呂

    蘇我安麻呂から見た吉野吉野

    彼は、天智天皇四年(671年)、天智天皇が重体となり大海人皇子(後の天武天皇)が病床に呼ばれたときに使わされた使者であった。しかし安麻呂は以前より大海人皇子と親しくしており、「有意ひて言へ(こころえてお話なさいませ)」と大海人皇子に忠告した。この安麻呂の一言により、大海人皇子は天智天皇の譲位を断り、吉野に脱出することが出来たという。他の蘇我氏一族である蘇我赤兄、蘇我果安らが大友皇子側に付いたのとは対照的な行動であり、天武天皇の「命の恩人」とも言える。ここから、天武天皇の元で重用されてもおかしくはないと思われたが、その後全く史料に見えず、没年も未詳である。ただ『続日本紀』「天平元年8月条」には官位役職は「少納言小花下」と見え、天智3年(670年)以前の官位制に基づいた名称となっており、ここから考察するに壬申の乱後幾ばくも経たない頃に早世したと考えられる。蘇我安麻呂 フレッシュアイペディアより)

  • 里見脩二

    里見脩二から見た吉野吉野

    里見は遺族側の証人として、裁判でありのままを証言する。結果、鵜飼より山陰大学の教授職の斡旋を受ける(事実上の左遷。2003年版では同大学の保健センター付教授で、研究職からは完全に外される)が、これを断り大学病院を去る。後に大河内教授の紹介で近畿がんセンター第一診断部次長の籍を得る(2003年版では千成病院内科医長)。吉野や十津川などでの検診など癌の早期発見に生きがいを見出す(2003年版では緩和ケア等、終末医療に従事する)。里見脩二 フレッシュアイペディアより)

  • 花山院

    花山院から見た吉野吉野

    その後、三条天皇皇后の藤原娍子とその子敦儀親王らが入ったが、1014年(長和3年)に火災で焼失した。その後、再建されて藤原頼通から師実に継承されて後冷泉天皇皇后の藤原寛子が居住したが、後に師実が改築して異母兄の藤原定綱に譲り、定綱はこれを師実の子で自分の娘婿でもあった藤原家忠に譲った。家忠は「花山院」と号し、その子孫は花山院流と呼ばれて、その宗家である花山院家が代々花山院を領した。建武の新政の崩壊後、後醍醐天皇が足利尊氏によって花山院に幽閉された後、壊れた築地から秘かに脱出して吉野に向かったことが、『太平記』などに書かれている。花山院 フレッシュアイペディアより)

  • 北朝 (日本)

    北朝 (日本)から見た吉野吉野

    北朝(ほくちょう)とは、日本の南北朝時代に、足利氏を頂点に、全国の多くの武士、及び大多数の公家が支持した持明院統の朝廷である。同時期に奈良の吉野に立った、大覚寺統の南朝(吉野朝廷)に対比する。北朝 (日本) フレッシュアイペディアより)

  • 南北朝正閏論

    南北朝正閏論から見た吉野吉野

    1392年(明徳3年/元中9年)閏10月2日に南朝の後亀山天皇が吉野から京都の大覚寺に入り、3日後に三種の神器が後小松天皇に引き渡された。ところが、後小松天皇は自己の皇統こそ正統なものであると主張しており、後村上天皇以後の南朝の天皇は上皇である後醍醐院が勝手に立てた「南方偽主」であり、天皇でもない後亀山が行幸の体裁で入京したことに反発を示した。加えてこの時交されたとされる 明徳の和約は義満ら室町幕府と南朝方の間のみで行われたものであり、後小松天皇ら北朝方はその内容は知らされていなかったもしくは合意をしていなかったようである。そのためか、北朝では「譲国の儀」実施や大覚寺統と持明院統による両統迭立など、和談の合意内容が明らかとなるとこれに強く反発した。後小松天皇は後亀山天皇との会見を拒絶し、平安時代末期に安徳天皇とともに西国に渡った神器が天皇の崩御とともに京都に戻った先例に則って、上卿日野資教(権大納言)・奉行日野資藤(頭左大弁)らを大覚寺に派遣して神器を内裏に遷したのである(『南山御出次第』『御神楽雑記』)。また、元号も北朝の「明徳」が依然として用いられ続け、2年後の明徳5年(1394年)2月23日に後亀山天皇に太上天皇の尊号を奉る時も、朝廷では後小松天皇や公家たちの多くがこれに反発し、16日間にわたって議論を続けた末、足利義満の強い申し入れによって「不登極帝」の扱いとして尊号のことが定まった次第であった(『荒暦』)。南北朝正閏論 フレッシュアイペディアより)

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