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吉野から見た源頼房
大和源氏の源流である源頼親は、藤原道長に仕える侍で、11世紀はじめに大和守に任ぜられた。だが、当時の大和国の大和平野(奈良盆地)北部は興福寺の勢力下にあり、頼親の拠点は大和平野南部が中心となった。国府は高市郡内にあったとされる。一方で大和国の南部といっても吉野川(紀ノ川)より南は修験道の根本であったため、頼親の勢力は高市郡から宇智郡の範囲に限られた。頼親は高市郡と宇智郡に私領を設けている(『前田本右記』)が、この高市郡越智庄と宇智郡宇野庄がのちの越智氏と宇野氏の起源となる。なお、源頼親と子頼房(加賀守)は興福寺と争い頼親は土佐国に、頼房は隠岐国に流されている(『扶桑略記』)。(吉野 フレッシュアイペディアより)
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吉野から見た定恵
多武峯寺(現在の談山神社)は、寺伝によると藤原鎌足の死後の天武天皇7年(678年)、長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津安威の地から大和の地に移し、十三重塔を造立したのが発祥と伝えられる。以後、講堂(現在の拝殿)、祠堂(現在の本殿)が建立され聖霊院と号した。その後、藤原氏の繁栄と共に発展を遂げたが、平安時代に天台僧の増賀を迎えたことから、同じ大和国の藤原氏縁の寺院でありながら、宗派の違う興福寺とは争いが絶えなかった。(詳しくは談山神社を参照)。吉野郡とは、龍門岳(または音羽三山)から西へと伸びる稜線を北に越えた位置にあり、細峠(現在の奈良県道37号線、鹿路トンネル付近)または竜在峠を通じて結ばれていた。(吉野 フレッシュアイペディアより)